長年、放射線によるがんの治療に携わってきた医師の立場から、3.11以降の福島県を度々訪れ、放射線による健康影響について話をしてきましたが、現在のところ、直接的な健康被害は認められないと判断しています。しかし、放射線影響を正確に把握するために必要なものさしを持たない多くの人が、情報に惑わされ不安になっているのではないでしょうか。
直接的な被害は認められないといっても、原子力発電が絶対に安全だといっているわけではありません。たとえば火力発電にもリスクがあるように、リスクというものはゼロにはならず、その「程度」が問題なのです。そして生物にとっての最大のリスクは死です。今、日本人の死亡原因の1/3を占めるのはがんですが、年間に約36万人ががんで亡くなり、しかも日本は、先進国の中でがんによる死亡増加が際立っています。がんになる原因は生活習慣による場合が多いにもかかわらず、被ばくによる発がんリスク上昇といったマスコミの報道が、がんの最大原因とは言いがたい放射線に対する誤解を生み出し、恐怖心をむやみに煽り、放射線の正しいものさしを壊しているわけです。
がん発生の仕組みについては、正常な細胞では免疫が有害なものを攻撃し排除してくれますが、年齢が上がるにつれ免疫力は低下し、生命をつくる基礎のDNAにつけられた傷が修復できなくなり、がん細胞が増加していきます。がんにならないためには、喫煙をやめ、飲酒を控え、欧米型の脂肪分の多い食事を避けて、適度な運動やウイルス、細菌の感染を避けるといった日常の心がけが最も大事です。
放射線は、DNA を傷つけてがん細胞を増やすことは確かですが、空気中や地面の中といった自然界に存在するもので、食べ物からも摂取していることを正確に理解している人は少ないように思います。自然界にある放射線は、土地によって線量が異なり、たとえば福島の警戒区域よりもフィンランドの方が高いですし、日本人の長寿の秘訣のひとつである食品の魚にも、放射性物質の一つ、ヨウ素が多く含まれています。地球上の誰もが、日々、放射線を被ばくしているわけですが、問題になるのは、放射線の量とどのくらいの時間をかけて被ばくしたかということです。また、がんの発生率が高くなるかどうかは、人工放射線でも自然放射線でも同じです。
放射能と放射線の単位として使われているのが、ベクレルとシーベルトです。線香花火を例にとると、燃える火玉から飛び散る火花の強さをベクレルで表わし、飛び散って火傷を負うなど人体への影響をシーベルトまたは1/1,000の単位ミリシーベルトで表わします。広島・長崎の原爆では、一瞬で100~200ミリシーベルトを浴びたために細胞の修復が不可能になり、その後、がんになった人も多くいますが、福島では一瞬のうちに同量を被ばくした人はいません。
平均的な日本人の年間被ばく量は、自然放射線が約2.09ミリシーベルト、医療放射線、つまりエックス線など検診で受ける放射線が約4 ミリシーベルトで、合計5ミリシーベルト以上です。また自然放射線や医療放射線以外の年間被ばく線量については、許容限度を1ミリシーベルトに設定しています。医療放射線は過去30年で倍に上昇しており、その原因のひとつがCT スキャンです。一回の照射で7ミリシーベルトもあるため、3 回受けると積算線量は警戒区域レベルになってしまうのです。病気の早期発見のために必要な放射線検査とはいえ、他の先進国と比較すると、日本人の医療被ばくは世界一と言われています。
原子力発電所の事故で放出された放射性物質の中で主なものは、ヨウ素とセシウムです。ヨウ素は新陳代謝を活発にする甲状腺ホルモンを作るための必須物質で、のどにある甲状腺に集まりますが、海中に多い成分ですから、海藻や魚介類を多く摂取する日本人は内部被ばくをしています。甲状腺がんの患者はチェルノブイリの事故後に増加したとはいえ、IAEA(国際原子力機関)によると、25年経過した現在においても6,000人の患者以外の健康被害は報告されていません。
一方、セシウムは、アルファ線、ベータ線といった放射線の種類の中でも物質の透過性が高いガンマ線を放出し、全身の細胞に行き渡りますし、放射性物質の強さが半分になる半減期も、ヨウ素が8日と短いのに比べ30年と長いです。福島の事故後に放出され、風で流されてきた空気中のセシウムが雨によって地面に降り注ぎ、草木や屋根に付着し、付着した野菜を食べたり、牧草を食べた牛からしぼった牛乳を飲んだりすると内部被ばくしてしまうわけです。
外部被ばくも内部被ばくもシーベルトが同量であれば人体への影響は同じですが、福島の場合、どちらかというと外部被ばくより内部被ばくの方が少ないといわれる理由は、農業・漁業関係者や流通業者が安全基準を厳しくチェックし、基準値を上回るものが市場に出回らないよう努力しているからです。昨年来、厚生省の指示でさらに基準値が厳しくなり、水の基準値などはアメリカの1/10にあたる10ベクレル以下になっています。
約12 万人の広島・長崎の被爆者を対象にした追跡調査の結果、100ミリシーベルト以下の場合にがんとの因果関係は認められていないため、放射線影響が現れるしきい線量(影響の発生する最小線量)は100ミリシーベルトとみなされています。福島の原子力発電所に近い地域の住民の方を対象にした調査では、事故発生から4カ月間の積算線量は5ミリシーベルト未満でしたが、全員避難指示が出された福島県飯館村などでは、高齢者まで無理に避難させたことによるストレスから、逆に死亡率が上がるのではないかと危惧しています。高齢者でなくとも、慣れない環境で暮らすストレスで飲酒や喫煙が増え、放射線の回避が逆に間接的な放射線健康被害を増やし、がんになりやすくさせるのではないでしょうか。実際にチェルブイリでは年間5 ミリシーベルトの基準で避難させたところ、村民の平均寿命が7才下がり、避難指示を無視して地元に戻った人は長生きをしているという皮肉な結果があります。
日本国民の3人に1人がかかるがんは、早期に発見すれば9 割が治癒できます。部位によって症状が出にくいがんもあるので、定期検診を受けることが重要になり、広島では被爆者への健康手帳交付により医療費の自己負担がゼロのため、検診をよく受けられるせいか長寿の人が多くなっています。しかし、がん検診受診率が70%以上のイギリスと比較すると、日本ではまだ対応策が遅れているといえます。
放射線の正しいものさしを持って、リスクを正しく管理し、がん検診などの検査による早期発見と適切な医療を受けていただくことにより、健康で楽しく長寿な人生をおくることができるのではないかと考えています。
東京大学医学部附属病院放射線科准教授/緩和ケア診療部長
専門は放射線医学。東京大学医学部附属病院の放射線科で緩和ケア診療部長として活動しながら、がんの臨床医として活躍。さらに福島原発事故後は、一般の人への啓蒙活動も行っています。著書に『放射線医が語る被ばくと発がんの真実』(ベスト新書)