3.11以降、原子力発電所の稼働停止により、日本では火力発電のための石油、天然ガスの輸入が増加しています。この2月下旬、バーレーン、サウジアラビア、UAE、カタールなど日本にとっても重要な中東の産油国を視察する機会がありました。初めて訪れたそれら産油国の姿から見えてくることを私なりにお伝えできればと思います。
まず、驚いたのは、産油国だから当たり前ではありますが、どこもガソリンの価格が安いということ。サウジアラビアでは、1リットル当たり8円程度でした。ですからガソリン代を気にすることなく大型車がたくさん走っています。また、多くの産油国は電気代、ガス代が同様に安価、もしくは無料なため、経済発展に伴いエネルギー消費量がこの10年間で飛躍的に増加しています。このような状況のなかで、どの産油国もこのまま自国での石油消費量が増え続けると、経済基盤となっている輸出用の石油の量が減ってしまうという危機感に迫られています。近年、産油国は積極的に原子力や再生可能エネルギーを導入しようとしていますが、その理由は、自国の石油消費を抑制するためなのです。サウジアラビアの国家収入の内訳を見ると、原油輸出が80%以上を占めていますが、ひとつの資源に依存する国家は、自ら生産調整をしたり、価格を維持するための方策を考えなければならないわけです。
中東諸国は、一人当たりのGDPが比較的高い国が多いのですが、自国民比率をみると、カタールやUAEは20%、サウジで65%、バーレーンで60%で、その国以外の人たちというのは、インド、パキスタン、バングラデシュ、インドネシア、マレーシアといった同じイスラム教国、あるいはアフリカからの外国人労働者です。つまり産油国の人口は、富を得ている少人数の自国民と、多くの他国からの労働者で構成されているのです。 このことも産油国が抱える大きな問題です。中東地域で紛争などが勃発すると、外国人労働者がそれぞれの国に一気に帰国してしまい、農業、商業など、社会生活の下支えをしている労働者がいなくなって、自国民だけでは生きていけなくなるという問題を抱えているからです。そこで政府は、自国民が社会生活面で自立できるよう、奨励しているそうです。 さらに、産油国が抱えている別の問題としては、サウジアラビア、UAEなど山岳地帯も河川もないところでは、生活用のみならず工業用に必要な水を供給するために、海水を淡水化するための大規模な装置を設けています。石油やガスによって水も造っているのです。中東の国々には、石油依存から金融や観光にシフトしてきたドバイやバーレーンのような国もありますが、それでも石油輸出中東諸国にとってはビジネスの基盤であることに変わりはありません。
現地視察の途中、中東の資源輸送の要衝ルートになっているホルムズ海峡を眺める機会がありましたが、海峡近くの国フジャイラの海岸線まで行って驚きました。東京タワーを横倒しにしたほどの長さがある巨大な原油タンカーやLNG船が、狭い海峡のなかで通行待ちしていて、水平線に沿ってぎっしりと行列して並んでいるのです。ホルムズ海峡の危機……というような話を耳にしますが、こんなにも多くの船が行き交っているのかと驚きました。しかもほとんどがアジア向けの船だそうで、もしも海峡が封鎖されたりしたら、どのような事態が巻き起こるのか、想像するだけでも溜息が出ました。また、アブダビから15人乗りの大型ヘリコプターに乗り、石油採掘の源流ともいえるムバラス島を視察したとき、途中で、海底から掘削・生産するために必要な労働者や機械類を収容するために海上に設置された大きな構造体(リグ)の上に人を降ろします。リグでは30畳ほどの広さに15人ほどの作業員が住んでいますが、原油井戸からのくみ上げ作業を二週間続けたら、ヘリでアブダビに戻り、2日休んだらまたここへ帰ってくるという生活をしているそうです。さらに、井戸から採掘した原油をパイプラインで搬入してくる海上の集油基地にも立ち寄って、ヘリから人を降ろし、ようやく着いたムバラス島には、汲み上げた原油から海水やガス分を取り除いて精製し、タンカーで港まで輸送するシステムがありました。そして、驚いたことに、ムバラス島だけではなく、集積基地にもリグにも、日本の技術者が働いているのです。夏には気温が50℃にもなるような過酷な環境で、イスラム教の厳しい戒律によりアルコールの持ち込み禁止のほか、制限の多い生活を強いられながら、日本への安定供給のために働いている日本人の皆さんがいることを肌で実感し、頭が下がりました。
イスラム教国では、女性は男性以上に行動が制限されていますが、最近、サウジアラビアの女性たちは、女性の権利向上のためのデモを行ったりして、閉鎖的な自国男性との結婚が低下しているといわれています。そうなると自国民比率はますます下がるため、国を挙げて自国男性との結婚を奨励しています。一方、富裕層の人たちのなかは、メイドや運転手付きで自分は何もしなくてすむので、今の生活で満足という女性もいます。しかし中には、このままでは子どもの将来にとって良くないと考える親たちもいて、子弟をアブダビにある日本人学校にわざわざ通わせ学ばせているような人もいます。入学したときにはお弁当箱のふたを自分で開けることさえせず、メイドがしてくれるのをただ待っていたような子どもたちが、やがて日本人の生徒と同じように自分で自分のことができるようになるという話も聞きました。資源があるとはいっても、産油国の人たちも、私たちの知らない悩みや問題意識を背負っているということを今回の訪問で強く感じました。
産油国も独自の文化や歴史、地勢的なこと、あるいは宗教的な観点の中で悩みを抱えています。そしてあらゆる想定を踏まえながら、原子力という選択肢も持とうとしている。日本は資源がなく、かつ地震や津波などの自然災害のリスクも多い国です。でも、だからこそ、知恵を絞ってエネルギーの安定供給を維持しなければならないと思います。そのためには、産油国さえ選択肢に入れている原子力を、簡単に手放して良いものか。深く考えさせられました。
資源国とは石油やガスの取引だけではなく、文化、教育、社会インフラ、技術協力など様々な分野で、多くの人たちが相互の信頼関係を築きながら丁寧に向き合っていくことの大切さを実感した中東の旅でした。私たちは、つい欧米諸国と比較しがちですが、中東には中東の生き方があるのと同じように、日本には日本なりの方法しかない、無い物ねだりはできない、それぞれの国の生き方は、自分たちで見つけるしかないのだと改めて痛感しています。
神津 お母さんは、最近、出版した本「大切なこと、ちょっと言わせてね」の中で、日本人が忘れてしまったこと、今の社会を見て変だと思うことを書いていますね。
中村 日本人ならもう少しきちんとした日本語を使ってほしいし、日常、ちょっとした気遣いを見せてほしいと思って書いたんですよ。誰も使ってない廊下の電気は消すとか、水を流しっぱなしにしないとか、たとえ裕福な家庭であっても、昔なら普通にしていた行動なんだけれど、今はその当たり前がどんどんなくなって。
神津 電気も水も、限りある資源だとちゃんと意識していたんですね。
中村 私は2才の時から仕事をしていますが、うちの母が偉かったのは、家庭では普通の女の子として育ててくれたこと。それでも神津さんと結婚するまで、電車に乗った経験がなかったくらいだから、普通の暮らしじゃなかったのかもしれないけれど。
神津 まるで中東の富裕層の子どもみたいだけれど、環境の変化を素直に受け止めて、切り替えが早かったわけですね。
中村 終戦の間際に特攻隊の慰問に行ったのだけれど、若い兵隊さんたちは、私のような小さな子どもを目にして、この子たちの将来の礎に自分たちは死んでいくんだと、納得したかったんでしょうね。ところが基地を慰問して間もなく終戦を迎えると、今度の慰問先は進駐軍。カタカナの歌詞を手にして歌った経験もあったから、ある日突然、世の中が変わっても、それはそういうものなんだと素直に受け入れられるのかもしれないわね。
神津 3年前の3.11のあと、人生って一夜にして変わるもの、人生には必ず節目があると思っていたほうがいいとお母さんに言われて、なんだか救われたような気がしました。ところで、そういうお母さん自身のエネルギー源って何なのでしょうか。
中村 少食ということね。子どもの頃からお腹いっぱいになるとセリフが覚えられないとわかっていたもの。動作も鈍くなるので、若い頃から腹八分で我慢していたけれど、今は腹五分で十分。
神津 少食が健康の秘訣、エネルギーにもなるというわけですね。
中村 それから、大切なのは悩まないこと。嫌なことを、深追いして考えないというのも健康の秘訣かしら。
神津 時代がどんどん変化していく中で、主婦であり母であり、その上、女優業を長く続けてきたのは、ものすごいことかもしれない。さて、長いこと仕事をしていて、演劇の世界でも「変わったなあ~」と感じること、ありますか?
中村 そうねえ。テレビだって、人を描くドラマを作るのに、コンピュータでネタを探し出したり、俳優の人気度や出演料を調べて出演交渉するんですって。
神津 効率的にドラマを作ろうということなのかな? でもそうすると、人も、ものも育たなくなるのでしょうね。3.11直後に役に立ったものは、すべてそれまでに切り捨てられたものだったと聞いています。ガソリンや灯油を運び入れるのに使われたドラム缶は、製造会社が倒産していたせいで不足したし、道路を作るアスファルトは、石油精製の最後の残りかす、つまり捨てるものだから、安価すぎて採算が合わずに作らなくなっていたから道路工事が進まなかったり。何でも取っておくのは不経済だけど、必要なものまで捨ててしまって、後になって、しまった!と思うこともあるものね。やっぱり、作る技術を持った人を失う前に、育て、継承していかなければならないという大切な問題もあります。
中村 戦争で幻に終わった東京オリンピックのために、実は昭和15年にテレビの試験放送をしていたなんて、誰も知らないでしょうけど、私はそれにも出演していたのよ。だからテレビの試験放送から現代の3D時代まで、80年近く仕事をしてきたわけですよ。
神津 時代の推移の中で、進んでいくものは止められないけど、人間の手を離れたものはその存在も危ういと思う。日本語の表現で興味深いところは、「手」という言葉をよく使うでしょう。話し手、聞き手 …… 日本人は、人間の手が加えられたものが好きなんですね。でも、もしその技術を手放したら、おそらく日本という国を支える大事な基盤が変わってしまうのだろうと思います。
中村 私もこれまでと同じように、コミカルな演技を生かした女優を続けるだろうし、笑いを追求したいと思っていますよ。
神津 お母さんが少食をエネルギー源にして、自分なりのスタイルをずっと続けられたら素晴らしいと思います。そして、日本も、国情に見合った社会やエネルギーをこれからも選択していくことを心から願っています。
女優
1934年5月13日生まれ。作家の故・中村正常の長女として東京に生まれる。2才で映画『江戸っ子、健ちゃん』で子役デビュー以来、女優として数々の作品に出演。1957年に作曲家・神津善行氏と結婚。長女は作家・神津カンナ、次女は女優・神津はづき、長男は画家・神津善之介、「神津ファミリー」として親しまれる。1983年第34回NHK放送文化賞受賞、2000年11月日本文芸大賞エッセイ奨励賞受賞ほか。