登山家としての活動のみならず、エベレスト、富士山のゴミ清掃から旧日本兵の遺骨収集、そして日本やヒマラヤにおける災害支援と、多岐にわたる現場で活躍している野口健さん。活動を始めたきっかけ、活動しながら感じたことは何か、過酷な自然と対峙した体験から考える環境問題などについて、お話を伺いました。
今年の夏は中国地方で大雨、北海道で地震と、大きな自然災害が続きました。今、僕は二つの被災地の支援活動を掛け持ちで行っているせいか、かなり混乱しています。大雨の後には台風被害もあり、異常気象だと言われていますが、異常気象という言葉を初めて耳にしたのは、15、6年前にヒマラヤに行っていた時でした。ヒマラヤは、10〜5月までの乾季は寒いけれど雪が降りません。夏になると、インド洋の水温が上がって蒸発した水分の多い大気により雪が降るため、雪崩が起きやすいので近づけなくなります。峻厳な山からベースキャンプまで下山すると、一面に咲いているシャクナゲの花の匂いを嗅いで、あぁ命ある世界に戻ってきたと実感できます。ベースキャンプより高度が上には生き物がいない、つまり匂いもないから、死の世界に近いのです。ところが2000年くらいからシャクナゲの開花の時期が変わり、さらにキャンプ周辺にハエが飛んでいるのを見て、ヒマラヤの気候が変わったなと感じました。日本でも、これまでにありえない気象が毎年起こるようになるとしたら、人命のための災害に強い街づくりが急務だと言えます。
と同時に、災害に強い人間も作らなければならないと感じています。長年、大学生までの子供たちを集めて環境学校を開いており最初は環境問題を一緒に考えようと思っていました。ところが途中から子供達の生命力をなんとかしなければと思うようになりました。例えば小笠原でシーカヤック体験をした際、まずは浅瀬でひっくり返った時の対応を練習するのですが、自力でカヤックから脱出するはずが、ひっくり返ったまま動けなくなっている子が何人もいました。自然を体験したことがないせいで、ピンチになってもとっさに体を動かせないのです。そのため環境問題を考える前に、まず自力で生きる力の大切さを学んでもらうようになりました。自然環境の中で小さなピンチである「プチピンチ」の体験を重ねていけば、何かが起きた時に本能的に動けるようになるからです。7月にタイで中学生たちが洞窟に閉じ込められたことがありましたね。10日間も暗闇にいたにもかかわらず、救助された時、泣きわめきもせずニコッと笑っていました。生きるか死ぬかの極限状況に追いつめられてもパニックにならなかったのは、タイの子供たちは学校でボーイスカウトの授業を受け、集団のテント生活を経験していたからだとも言われています。
今、僕は様々な活動をしていますが、登山家なのにどうして社会活動をするのかよく問われます。自分でも考えてみると、現場に行くというインパクトが大切だからなのです。昨今はインターネットで大量のデータを収集できるので現場の状況に詳しくなった錯覚に陥りやすいのですが、実際に行ってみると、匂いもするし、その空間独特の気があって、生々しさを感じます。知るというのはこういうことかと納得し、さらに知ってしまったから気持ちの中で何かを背負うことにもなります。3年前にエベレストに行った時、ちょうど大地震が起き、ここで死ぬのかと思ったほどでした。ベースキャンプでは日本人も含め亡くなった方もいましたし、シェルパの石積みの家々は崩壊し、大地震の経験が近年なかったネパール人は途方に暮れるばかりでした。余震が続き危険だから日本に帰ろうと思った矢先、ネパール中の情報網がほとんど途切れていると知り、登山連絡用に携帯していた通信機器を使って世界に状況を発信して支援を求めればいいと思ったのです。僕とヒマラヤの関係、シェルパたちがいなければヒマラヤに登れなかった、さらに命をかけて助けてくれたこともある、社会のため人類のためというより、そういう関係性からなんとかしたいなと思って行動しました。
僕は子供の頃、勉強ができず、高校では問題を起こして停学処分。落ちこぼれて人生が終わったなと思った時に、父が一人になってよく考えるよう旅を勧めてくれて、京都や奈良をひたすら歩いて旅する中でモヤモヤした気分が晴れ、冷静に考えられるようになりました。たまたまその時、本屋で植村直己氏の本を手にとって、彼のそれまで歩んできた地道な人生にぐっと引き込まれました。この本との出会いが僕にとって転機になり、コツコツと地道に挑戦を積み重ねていけば、こんな僕でも何かができるのかもしれない、自分を変えられるかもと思ったのです。
23歳の時に8,000m級の山にトライした時のことをよく覚えています。日本からベースキャンプまで来て1カ月滞在、17時間かけて登頂したのですから、エネルギーを全部使い切って疲れ果てていました。山頂から下を見ると絶壁は恐ろしく、その上、下山中に遭難する人が多いため滑落した遺体が崖に引っかかっているのが見えました。下山の時に僕は荷物の負担を軽減するため予備の酸素ボンベをそこに置いてくることにしたのです。エベレストをはじめとした高所では鳥が持っていかない限り、1920年代から始まった登山隊のゴミは分解せずそのまま残っています。その翌年、国際隊のメンバーとして行ったら、「日本人のベースキャンプゴミが一番多く、経済は一流国でも文化、マナーは劣っているし、エベレストを富士山にするのか」とまで言われました。富士山は世界で最も汚い山だと言うのです。その悔しい思いが、エベレスト清掃活動スタートのきっかけになりました。
富士山にはエベレストに登る前の訓練として冬場にしか登ったことがなかったため、夏に初めて登って愕然としました。山頂には自販機や売店がずらっと並んでいたんですね。昔から信仰の山として敬われてきたのにこれはおかしいのではないかと思い、また、上空からの写真で白く流れている川のようなものが見えたので、登山道から少し離れたところを確認したら、白く見えたのはトイレで使われた紙でした。年間30数万人が登り、排泄物は火山灰の山肌を流れてしみ込みますが、紙は溶けずにたまったままです。これでは水質汚染も心配になってきました。
富士山清掃活動をNPOのメンバーとともに始めた時、案内されたのは山の麓に広がる樹海でした。使用済み注射器からトラックのタイヤ、家電製品まで不法投棄が山積みになっており、その場所の土壌は汚染され木々は枯れていました。場の淀んだ空気が自分の中に入り込んできて、精神を汚していくような気さえしたのです。それで世の中のすべてにA面、B面があって、遠くに見える美しい富士山はA面で、不法投棄のゴミの山がB面だと思ったのです。また、富士山は日本の環境問題の縮図であり、富士山ゆえに日本中から注目され活動が広がり、日本が変わるかもしれないと思って、2000年から清掃活動を始めました。
環境活動を始めてから18年になりますが、ずっと走りながら考え、考え方がいろいろと変わってきました。例えば、富士山、エベレストの清掃活動を始めた頃は、自分の正義=社会の正義と思っていました。しかし世の中はそれほど単純ではなく、僕は批判にさらされ押しつぶされそうになりました。富士山の環境保護のため入山料を取ったら登山客が減ると言われたり、ゴミが出ない仕組みを作ろうとして批判されることもありました。また最初は清掃活動に一般の参加者が集まらず、心が折れそうになる一歩手前で、頭の中をスッキリさせようとヒマラヤに逃げ出しました。そして気付いたのは、自分が正しいと思っていることは立場が異なれば考え方も変わり正しいとは限らない、いろいろな人の考えで社会が成り立っているということでした。つまり環境問題は自然を相手にしているのではなく、人間社会への取り組みなのです。ともすると白か黒かの話になりやすいですが、登山客によって収入を得ている人たちにとっては登山客の減少は生活の基盤を失うことになる。だから白黒つけるのではなく、グレーゾーンを見失わないようにしました。清掃活動も回数を重ねるごとに日本中からボランティアが来てくれるようになりました。また最初は大型廃棄物の移動や処分を地元の行政に頼んでも予算の関係からフォローしてもらえなかったのに、当時の小池環境大臣の活動への参加を機に、官庁や地方行政の人たちも動いてくれるようになったのです。環境問題において人と人との輪をどこまで広げていくかが解決の糸口になるんですね。
最近、環境問題で注目し心配していることが二つあります。一つは、温暖化により降雪が減ったせいか、山にいる数多くの鹿が冬を越えられるようになり、木の皮や根っこを食べてしまうことです。そのせいで樹木が倒壊してしまうと、脆くなった山の斜面は地震や大雨で崩壊しやすくなります。もう一つの問題は、メガソーラーの増加。地球温暖化防止のためと言って森や山を削りソーラーを一面に並べていますが、これもまた土砂崩れの原因になります。再生可能エネルギー先進国のドイツでは、ソーラー発電を作る場合、つぶした森の面積分の森を再生するよう義務付けられており、また仮にソーラー会社が倒産した場合でも施設の撤去がきちんと行われるように、あらかじめ撤去費用を国に預ける仕組みになっています。日本では近年、外資によって導入が急増した太陽光パネルですが、今後20年もしたらパネルの不法投棄が行われ、以前の富士山樹海のようになってしまわないかと、危機感を抱いてます。
アルピニスト
1973年、アメリカ生まれ。父親が外交官だったため諸外国で幼少時代を過ごす。高校時代に手にした植村直己氏の著書『青春を山に賭けて』に感銘を受けて登山を始め、モンブラン、キリマンジャロの登頂を果たす。大学時代に自ら登山に必要な資金集めをし続け、99年3度目の挑戦でエベレスト登頂に成功し、7大陸最高峰世界最年少登頂記録を25才で樹立。その後は、エベレストおよび富士山のゴミ清掃活動を精力的に行うとともに、山で遭難したシェルパの遺族を補償するための「シェルパ基金」や、ネパール・サマ村の子どもたちのために学校を作る「マナスル基金」を立ち上げる。また子どもたちの環境教育のための「野口健・環境学校」を開設。フィリピン・沖縄における旧日本兵遺骨収集活動も行っている。