熊本で地震が起きてからずっと、自分に何ができるのか考えていました。車中泊が多いと聞いたので、軽くてすぐに広げられるテントを届けたいと思いました。テントを集めながら、どうやって届けようかとツイッターでつぶやいたところ、偶然ご覧になった岡山県総社市の市長さんが賛同してくださり、熊本県益城町の町長に連絡が行き、運ぶ先の公園が決定。3日後には、総社市経由で益城町に運び、僕も現地に入りました。現場で若干のトラブルはあったものの、被災者の皆さんは、一刻も早く車中泊から解放されたいはずだと思い、集まった100人のボランティアの手を借りて、テント村を開設。テントのなかで「やっと足を伸ばせる」と涙を流す被災者の姿が心に残りました。
活動を続けていて思うのは、自分の活動をすべての人に評価されたいと思うと何もできない、ということです。世の中にはいろんな考えがある。たとえば僕は25歳のときに富士山清掃活動を始めました。当時の僕は単純に、「ごみだらけの富士山をきれいにする、これは正しいことだから、日本中の人が同じように正しいと思ってくれる」と信じていました。しかし応援してくれる人がいる一方で、売名行為だと批判的な意見も出てきました。ネット上の〈炎上〉もあり、本当に落ち込んだんですよ。ですが、「自分の正義はみんなの正義であるとは限らない。世の中にはさまざまな問題があって、いろいろな立場の人がかかわり、それぞれの正義、都合がある。人は立場が変わると捉え方が変わる、それが人間社会だ」と気づいたのです。環境でもエネルギーでも、信念を持って活動するのは大事だけれど、思いがあまりに強すぎると、他が見えなくなって視野が狭くなります。「すべての人に評価されようと思うと何も活動できない。とは言え、自分の正義感に酔いしれてもいけない。」難しいけれど、このバランスをとることが必要なのだと、この十数年の活動で、そう思うようになりました。
活動というのは、言葉で訴えるだけではなく、行動が伴わなければならないし、続けていかなければ意味がありません。富士山清掃活動は今年で16年目になりますが、はじめは参加者100人前後。人も集まらず関係者の協力も得られず、最初の数年は本当につらかった。不法投棄が多い樹海のごみ拾いでは、回収処理に莫大なお金がかかるため、地方行政にフォローをお願いしましたが、予算不足を理由に断られます。ところが10年続けるうちに、多くの人に清掃活動が知れ渡り、当時の小池環境大臣も活動に参加してくれました。大臣の参加を機に環境省や地元行政の人たちが一斉に集合し、それまでは距離を置いたかかわり方をしていた人たちの温度差がなくなったのです。その後も大臣が県などにかけあってくれたおかげで、山小屋47軒すべてがバイオトイレなど環境配慮型のトイレに変えられました。民間には民間の、役所には役所の限界があるけれど、連携すればできることもある。日本人は「権力」にアレルギー反応を示しがちですが、権力、行政との連携で進む活動もあるわけです。今では富士山清掃活動に7,000人もの人が集まっています。
僕は子どもの頃、エジプトのカイロに住んだことがありますが、砂漠地帯でほこりっぽい、色のない国から日本に戻ったとき、きれいな水と緑に囲まれた山あいの風景を目にして、本当に美しいと涙しました。だからこそ始めた清掃活動ですが、どのように行政を巻き込んでいけば富士山を守っていけるのか、ずっと考えています。美しい富士山を本当に守るには、キャンペーンとしてごみを拾うだけではダメで、ルール、体制を作らなければいけない。環境問題に取り組むというのは結局、人間社会を相手にすることなんですね。そして、いっときの正義感だけではつらくて続かないので、活動に夢を持つこと。富士山清掃もそうでしたが、僕はいつも「4年がんばれば道は開ける」と思っています。「その先の社会」に夢を持って活動を続けています。
地球温暖化の話もしておきたいと思います。日本にいると実感することが少ないんですが、ヒマラヤでは違います。1992年から50回以上ヒマラヤに登っていますが、10~5月までの乾季には雪が降らないんですよ。雨季になると、雪で斜面が真っ白になります。ところがある時から、乾季なのに雪が降って、また雪崩も起きるようになりました。それに氷河が崩壊して地面が陥没、溶けた水で氷河湖ができ、大きくなってきています。このままどんどん大きくなって決壊したら、村は壊滅状態になってしまいます。21世紀に入り、地球温暖化問題が注目される世界の風潮に同調し、日本でもヒマラヤ対策のための現地調査を派遣していました。また、国としても、温暖化防止のため原発促進の方向に向かおうとしていました。ところが、2011年に起こった東日本大震災による福島第一原子力発電所の事故によって、一気に失速してしまいました。
僕は原子力発電に対して必ずしも反対ではない、と言うと、ならば推進派なのか、と決めつけられてしまうことがあります。でも、反対か推進か、どちら側に立つのか選ばされていたのでは、話し合いになりません。強い思いや信念を持つことは大事ですが、白か黒か、100かゼロか、右か左か、世の中そんなに単純ではないでしょう。安易に色分けをしたがる社会は、自ら限界を作り上げてしまうのではないかと非常に危惧しています。だから僕は僕なりに、活動を長く続けながら、自分の思いを時間をかけて伝えていけたらいいなと思っています。
神津 テント村の話やエネルギー問題も含めて、いろいろな意見があるのが人間社会だとおっしゃっていましたが、多様な意見のコンセンサスはどのようにしたら取れるとお思いですか?
野口 より多くの意見がより広く伝わるようにすればいいと思います。報道番組で富士山のごみの話はしていましたが、テレビのバラエティ番組から出演依頼が来た時、番組中にその話をさせてもらえますかと頼んだところ、ディレクターが興味を持ってくれて話すチャンスができました。すると出演後に清掃活動に参加する人が増えたんですよ。この時に、今後も伝え方の工夫をしていかなければと思いました。
神津 もともと日本語で「水を差す」という言い回しは、適温にしてちょうどよい温度にするという、いわば肯定的な使い方だったのに、現在は「水を差す」と言うと「かき乱す」「妨害する」というような否定的な意味合いのほうが強くなりました。言葉の使い方でもちょうどいい温度を作ろうという言い方はなくなってきたのかもしれません。
野口 小笠原の飛行場建設問題についても、環境面からは作らない方がいい。 でも、島民の人にとっては、重病になった時に飛行機で運べば 命が助かる可能性が高い、といった2つの側面がありました。子供たちを連れて小笠原に行った時、最初は全員が建設に反対だったのに、地元を見て回り、島の人から意見を聞くと、最終的に半々になる —— だから環境問題の論議では、落としどころを探せばいいのだと思います。エネルギーに関しても、何も犠牲にしないですむエネルギー源なんてないわけで、地球のためを考えるといっても、所詮、エゴイストな人間のためですよね。
神津 いろいろな社会問題について見ていくと、すべてが対立したままで終わってしまうことが多いですね。
野口 新聞記事でさえ、各紙を比べるとこれほど見方が違ってくるのかなと感じますね。やはりいろいろな角度から見た結果、最終選択をするまでの過程を経ることが大事でしょう。
神津 多様なものの見方があることに慣れるためには、やはり子供の頃からの教育が必要ですね。
野口 父が外交官だったのでエジプトをはじめ中東での生活を体験しましたが、僕の父はピラミッドを観光したら、普通の観光客が決して行かないスラム街も僕に見せました。治安が悪い場所になぜ連れていくのか聞いたら、「物事にはA面とB面があり、世の中のB面も必ず見るように」と教えてくれたことが、今とても役に立っています。異なる立場に立ってものを考えると、なぜそういう行動をするのか理由がわかり、そしてその中に問題解決のヒントが必ずあるからです。
神津 問題解決のための話し合いはどのように進めていけば良いですか。
野口 相手の懐に飛び込んで心のうちを伝えるうちに、信頼が深まり、お互い理解できるようにもなる。つまり最後は人と人、ということなんです。
神津 それでも人間の罵詈雑言によるネット炎上では心が折れたと言われました。いつから日本人は集団で攻撃するようになったとお思いですか?
野口 今までもきっと心の中にあったけれど、どこかで抑えられてきたものが、ネットは顔が見えないから一気に湧き出てくる。国民性が変わったわけではないと思います。僕はしんどくなってきたら、溜め込まずに愚痴を言ったり、あるいはその活動からちょっと距離を置いて、違う活動をしたりします。それが続けられる秘訣です。
神津 だいたい4年というひとつの区切りを設けて活動をしていらっしゃるというお話でしたが、ETTも経済広報センターに事務局を移し、活動を新たにして4年が経過しました。
野口 アスリートが目標にするオリンピックと同じなんです。人間の集中力はそれほど長く続かないと思うし、僕の場合は4年後までは想像できますね。それと、なぜ長く続けられるかというと、やはり楽しいことがあるからで、続けていくうちに良い変化もいろいろありますからね。
神津 継続に意義ありということですが、これから新たにやりたいことはなんですか?
野口 新しい夢は何ですかと聞かれると、新しい夢を持たないことが夢ですと答えます。新しいことをする方が気持ちとしては新鮮ですし、続けることの方が、本当ははるかに厳しいんですけれど。
神津 では昨年に続いてどのような活動をされる予定ですか?
野口 昨年のネパール地震の時、ちょうどヒマラヤをトレッキングしていた僕は、やっとのことでベースキャンプのあるシェルパの村に戻りました。ようやくほっとできるかと思ったら、そこでは家々はすべて崩れ、村の人たちが途方にくれていたんです。それを見た僕も虚脱感を感じました。でもここで僕に何ができるか考えて、村を回って被害情報のリストを作り、現場の写真を撮り続け、それを元に、日本に戻ってヒマラヤ基金を立ち上げ、今までに1億2千万円も集まっています。テントや、村の人たちが家を建てられるように、被災支援金を配布してきましたが、今回、ヒマラヤのシェルパたちから、そのお礼にと熊本の被災された方々に対する寄付金が送られてきています。
神津 野口さんは、富士山清掃や、東日本、ネパール、熊本などの被災地でもB面を見ながら活動を続けられてこられました。私たちETTのメンバーもまた、今後物事のB面を見ていく習慣を身につけ、考え、行動を続けていきたいと思います。
アルピニスト
1973年、アメリカ生まれ。父親が外交官だったため諸外国で幼少時代を過ごす。高校時代に手にした植村直己氏の著書『青春を山に賭けて』に感銘を受けて登山を始め、モンブラン、キリマンジャロの登頂を果たす。大学時代に自ら登山に必要な資金集めをし続け、99年3度目の挑戦でエベレスト登頂に成功し、7大陸最高峰世界最年少登頂記録を25才で樹立。その後は、エベレストおよび富士山のゴミ清掃活動を精力的に行うとともに、エベレスト登山日本隊に参加し遭難したシェルパの遺族を補償するための「シェルパ基金」や、ネパール・サマ村の子どもたちのために学校を作る「マナスル基金」を立ち上げる。また子どもたちの環境教育のための「野口健・環境学校」を開設。フィリピン・沖縄における旧日本兵遺骨収集活動も行っている。