福島第一原子力発電所の事故後、規制基準をより厳格にしても、原子力に対する一般的な風当たりは強く、稼働の是非を巡る議論がかみ合わないままになっています。なぜ日本では原子力を利用してきたのか— その原点は、1950年に制定された原子力基本法に明記されており、「原子力利用を推進することによって、将来におけるエネルギー資源を確保し、学術の進歩と産業の振興とを図り、もって人類社会の福祉と国民生活の水準向上とに寄与することを目的」としています。つまり、この目的が達成されるのであれば、原子力利用の正当性があるはずです。また安全の確保については「国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資することを目的」と書かれており、さらに原子力災害の防止については原子炉等規制法、原子力災害からの保護については原子力災害対策特別措置法があります。この3つの法律が原子力利用の基盤となっています。
日本のエネルギー自給率は1960年代の初めまでは約60%ありましたが、高度経済成長に欠かせなかった石油への依存により自給率が下降する中、オイルショックが起こりました。以後、天然ガスとともに、すでに研究開発が進められていた原子力の導入が加速します。2011年の震災以前には原子力を含めて20%あった自給率ですが、今や先進国の中で下位から2番目のわずか6%、エネルギーインフラの脆弱さは危険レベルと世界から指摘されています。震災以降にまとめられた第4次エネルギー基本計画の要締は、3EプラスS。安全性(Safety)を前提とし、エネルギーの安定供給(Energy Security)、低コストでのエネルギー供給を実現する経済効率性の向上(Economic Efficiency)と同時に、環境への適合(Environment)を図ることになっています。原子力はベースロード電源として捉えられてはいるものの、可能な限り低減し、2030年には電源構成の20〜22%の目標になっています。さらにそれ以降に関して原子力のシェアは未定であり、また「安全性の確保」の具体的な方法についても不透明です。
エネルギー政策の面では3Eにかかわるリスクも考慮すべきなのですが、原子力の場合、Sに当たる事故によるリスクの影響が最重要視されがちです。リスクが管理され安全が確保されるとはどういう状態か— 参考になる考え方は、国際原子力機関(IAEA)の基本安全原則です。「基本的な安全の目的を達成するのに、放射線リスクを生じる施設の運転又は活動の実施を不当に制限してはならない」とあります。そして「施設と活動が正当であると考えられる、それらによりもたらされる便益は、それらから生じる放射線リスク以上に価値がなければならない。便益とリスクを評価するために、施設の運転及び活動の実施による全ての有意な得失を考慮しなければならない」となっています。「正当」は、英語ではJustification。元々の意味は「神の前で説明ができること」。真実かどうかは別として、先入観を持たずに、公正に判断し、説明ができるという意味合いです。
安全性の前提とJustification(≒正当性)の両立は、定義しづらいものです。なぜなら、安全確保活動にはシステムや設備の挙動、人の活動、環境条件などの不確かさがつきまとい、いかに備えたとしてもゼロリスクにはならないからです。従ってリスクを容認できる水準にまで抑制する、つまり発生頻度を小さくし影響を小さく抑制すること、そして発生頻度が小さくても影響が大きいシナリオについてはその数を限定せず想定すること、また発生頻度と影響の両方の総合的な判断が重要になってきます。リスクに対して事前にできることは何か。1. どのような事態が起きるのかシナリオの想定、2. シナリオの発生頻度の考慮、3. それらの被害や影響度の査定という3つがあります。
福島第一原子力発電所の例を見ると、被害の程度が時間の経過とともに大きくなり、水素爆発により被害の影響が最大限になりましたが、全電源喪失に対する予備電源の確保など、発生防止が可能だった備えが数多くありました。だからこそまずは「発生の防止」=望ましくない状態、事態の発生を防止。次に「影響の緩和」=その状態が発生した時に、影響を和らげることが重要です。この両者が実現されることが、「深層防護」なのです。では、「望ましくない状態」とは何か。原発事故の場合、プラントの損傷、放射性物質の放出による健康と生命への脅威、汚染地域からの避難による財産の損害、また地域全体環境の保全への脅威などがあります。規制委員会が設定する数値による規制以上に、被害を受けた立場によって異なる望ましくない状態を具体的に設定しなければ、国民は誰も納得しないでしょう。
一方で、安全確保によりリスクは下がっていくものの、あるところからは不確かさが高まります。車の場合、衝突時の事故から身を守るために取り付けるエアバッグによる胸部圧迫の死亡事故が報告されており、安全のためのエアバッグそのものがリスクの元凶になることもあります。しかし衝突回避技術の普及によって、エアバッグは不要になる時代が来るかもしれません。リスク管理が進んでも、リスクはそれ以上に下がるわけではなく別のリスクが発生します。そこで考えたいのが「許容しうるリスク水準」です。IAEAの基本安全原則にもあったように、「不当に制限する」のではなく、安全向上においては、ある地点からは不確かさの管理こそリスク管理と言えます。
私たちは日常生活の些細なことでも、常に何かを選択し決断しています。判断停止がリスクをもたらすこともありますし、またリスクの選択はできても、不確かさによるリスクを全て避けることはできません。ただし、潜在的な危険に対する対処能力の向上は有効だといえます。そして、NRC(米原子力規制委員会)のように、リスク軽減のコストに関しては最大限に実施し、権限執行には経済的・政策的観点を考慮するという考え方も妥当と言えるかもしれません。
リスクをどこまで容認し、どのポイントで妥協、我慢できるかに関しては、ALARP(as low as reasonably practicable)の原理があります。我々が持っている最善の知見、専門家の知見により合理的にリスク評価し、許容できないレベルと許容できるレベルのリスクの間については、できる限り低減に努力すべきという考え方です。しかし、無限に努力しなければいけないのでしょうか。努力を試みるべき境界点は、それ以上リスクを低減したら便益を失うようになる、そしてコストをいくらかけてもそれ以上のリスク低減は不可能になるという地点だと考えられています。原子力発電における稼働のリスクと停止によるリスクのバランスのように、リスクと社会的な利益との釣り合いを判断する、つまりJustificationが保たれているのかを定期的にチェックすることが、容認、妥協、我慢の3つが共存できる現実的な条件になります。
原子力の問題は結局、便益性を放棄してまで安全を大前提にして良いのだろうか、その選択によりJustificationがきちんと説明されるのだろうか、というポイントにあると思います。2016年の川内原発稼働等差止仮処分申立却下決定に対する即時抗告事件において、福岡高裁から出された決定要旨の中では、リスクゼロはありえないけれど、どの程度の危険性であれば容認できるのかについては、社会通念を基準にして判断し、最終的には政治的判断に委ねられました。この判決は、日本のリスク管理のあり方に一石を投じるものになったと思います。
東京大学大学院工学系研究科教授
1957年生まれ。専門は原子力工学、安全工学、リスク学。79年、東京大学工学部原子力工学科卒業、84年、同大学大学院工学系研究科博士課程修了後、動力炉・核燃料開発事業団(現・日本原子力開発機構)に入社し、高速炉の熱流動、安全、リスク評価などの研究に従事。2005年4月から大阪大学大学院工学研究科環境・エネルギー工学専攻教授。15年1月より現職。