福島では、放射線の除染目標値を年間1ミリシーベルトに定め、除染措置作業が続けられています。一方、私の専門である放射線によるがん治療においては、がんの種類などによっても差がありますが、一人の患者さんに対して、一日一回当たり約2,000ミリシーベルトを約30回、つまり合計約6万ミリシーベルトの患部照射を行っています。事故で拡散した放射線と、がん治療の放射線は、どこが違うのでしょうか?
私たちは毎日、宇宙から大地からそして大気から自然放射線を浴び、かつ食べ物に含まれている放射線も体内に取り込んでおり、日本人は年間平均で約2.09ミリシーベルトの被ばくをしています。それに加えて、日本が世界の1/3も所有しているCTスキャンでは、一回に約7ミリシーベルトの被ばくをするように、平均的な日本人は、年間約4ミリシーベルトの医療被ばくをしていますが、そのおかげで、病気の発見ができるという恩恵も受けています。
自然のものでも人工のものでも放射線の影響は変わりません。この性質をきちんと理解していないため、大きな誤解が生まれています。福島の事故で放出された放射線量は、チェルノブイリ事故の1/60以下であり、かつ被災地の食品は厳重に放射線測定され、基準値を超えたものはすべて出荷制限されているため、内部被ばくはほとんどありません。それなのに、子どもや孫にまで放射線の影響が出るといった誤った情報により、恐怖心が煽られ、私が福島に赴いた時に女子中学生にアンケートを取ったところ、6割の人が、将来、生まれて来る子どもに影響があると思っていました。
放射線の健康被害としては、発がんリスクの増加があり、広島・長崎の被爆者への調査から、100ミリシーベルトを超えて被ばくすると、発がん率が上昇することがわかっています。ところで、がん細胞は、さまざまな原因で遺伝子が傷ついたことにより、私たちの体の中で、日々5,000個も生まれていることをご存知でしょうか。ただ、出来たてのがん細胞は、免疫細胞(リンパ球)が修復してくれるので、1センチのがんになるまでには、早くて5年、通常は20年近くもかかります。
日本人の2人に1人はがんにかかり、3人に1人はがんで亡くなっているため、日本は「がん大国」といわれています。戦前、戦中に日本人の死因のトップだった結核や、戦後のトップだった脳卒中が減少して来たのは、有効な薬の開発とともに、日本人の食や生活環境が豊かになったせいです。一方で、先進国の中で日本だけが、がんによる死亡が増加しています。
がんになる原因の2/3は生活習慣で、喫煙、飲酒や運動不足などから、肥満、高血圧、糖尿病が増えれば、がんになるリスクも高まります。たとえば喫煙は放射線被ばく1,500ミリシーベルトに相当するほど、がんになる確率を上げます。また年齢とともに免疫力が下がり、がん細胞はできやすくなり、高齢化の進む日本では当然がん患者は増えます。また免疫力を下げる原因としては、ストレスもあります。福島の放射線による健康被害は、国連科学委員会や国内外の多くの専門家による見解から皆無だとされています。ですから、20年、30年後の福島で、もしがんになる人が増加していたら、その原因は、放射線被ばくによるものではなく、住み慣れた土地を離れ、不自由な暮らしの中で増えてしまった生活でのストレスが原因である可能性が高いと考えられます。
神津 中川先生のお話で、放射線やがんについて、少し理解できたような気がしますが、私たちは、基準になる、どのような「ものさし」を持てば良いのでしょうか。メディアの情報が入って来た時に、数値を見ただけでは、それが大きいのか微小なものなのか、簡単には判断しにくいのですが。
中川 放射線についてのものさしとしては、シーベルト、あるいは1/1,000のミリシーベルトという単位をまずはしっかり覚えてください。線香花火に例えると、火花の強さが放射能の強さに当たりベクレルで表され、火花(放射線)が人体に与える影響(危険度)の単位がシーベルトです。法律では、平時の一般人の年間線量の限度は1ミリシーベルトに規定されていますが、これは、自然放射線と医療放射線による被ばく(=日本人の平均は約6ミリシーベルト)にどれだけ上乗せできるかという意味です。実際には、成人なら10ミリシーベルト、子どもならば5ミリシーベルトまでは上乗せ許容範囲内です。福島の方たちの累積線量は、原子力発電所で作業に携わっている人を除いて、99%が1ミリシーベルト未満に収まっています。
神津 ものさしを持っていないと、感覚に訴えるような伝え方をしている報道に、左右されてしまいますよね。WHO(世界保健機関)などの統計数字を基に、人間を死に至らしめる生物のランキングを挙げたビル・ゲイツ氏のブログを見たら、第一位は蚊でした。サメやライオンなどに比べて、蚊に対して恐怖心を抱く人は少ないですよね。でもマラリアやデング熱など媒介する感染症が多いため、蚊こそ人間にとって最も脅威を与える生物です。このように、感覚ではなく、科学的、医学的な根拠に基づいて冷静な判断をする必要があります。ともすると悪者扱いされやすい放射線ですが、その有無というよりは、浴びる量と浴びる時間が、人体への影響の大事な判断要素だとおっしゃっていましたが。
中川 たとえば、塩を一度に2kgも摂取したら致死率が高くなりますが、一年間で同量を取ることは必要だとされています。放射線の場合、広島・長崎の原爆では一瞬にして大量の放射線を浴びたため、細胞の修復ができなくなり、その後がんになる方が増えました。また、100ミリシーベルト以上の放射線を受けたことによるがんの死亡率は0.5%増加します。しかし同じ被爆者でも100ミリシーベルト以下ならば、発がん率が上昇したという証拠はありません。100ミリシーベルトを、人間の一生を100年として100で割り、1年当たり1ミリシーベルトまでが限度、というように設定されています。
神津 ところが、その目標を達成するために避難した結果、逆に健康への悪影響が出ることもありますね。
中川 仮設住宅で暮らしている方の中には、飲酒、喫煙など健康被害をもたらす生活習慣が増えた方も多く、福島県の方の健康診断によると、血圧上昇、糖尿、肝機能の悪化、またストレスによる免疫力低下も報告されています。体もあまり動かさなくなり、あるいは、借り上げ住宅に移転されて住環境は整ったものの、周囲に見知った人がいなくなり、うつの症状を訴える人も増えています。健康で長生きする秘訣は、歩いたり家事をしたり、ただ普通に体を動かして生活することなんです。
神津 がんについての「ものさし」といえば、まず生活習慣でしょうか。
中川 もうひとつ大切なのが、検診です。ピロリ菌がいるかどうか確認すれば胃がんを防げるし、ウイルス性肝炎に感染していなければ肝臓がんになる確率は8割減ります。検査により一定の目安ができ、がんになるリスクは1/3にまで下がります。皆さんはよく勘違いされていますが、体に異変を感じたらすぐ病院に行くというのでは遅く、がんは進行しないと症状が現れないのです。だからこそ、健康な時から定期的に検査を受け、早期発見することが鍵になってきます。アメリカでは、子宮頸癌の検診受診率は、8割にも上っています。
神津 アメリカの女優アンジェリーナ・ジョリーさんは、遺伝的にがんになりやすいからといって、両乳房を切除し、さらに卵巣と卵管も摘出しましたよね。でも遺伝によるがん罹患は5%程度だとおっしゃいましたが。
中川 彼女の場合、がんの抑制遺伝子が少なく、母親の他にも親族の中にがんにかかった女性が多かったため遺伝子検査したところ、今後がんになる確率は87%もあることがわかったという、特異な例だったのです。
神津 がんになるかもしれないとストレスをためながら生きていくよりも、早期に対処したんですね。
神津 たとえば魚は体に良いといわれているけれど、放射性物質も含まれている、というように、物事にはプラスとマイナスの両面がありますね。ところが、医療放射線は必要だけれど、原子力発電所の放射線は嫌だからいらないと、つい感覚的に善し悪しをとらえたりします。
中川 今回の事故による放射線被ばくで人命が失われたわけではありませんが、今後、原子力発電の放射線で生命が脅かされるようなことは許せない、でも原子力発電の停止でCO2が増加し、地球温暖化が進み、その結果、異常気象になり、大規模な災害が起き、多くの命が奪われることは仕方ない ── こういう偏った考え方は、おかしいと思います。
神津 先生のように、人の命を救うために放射線の仕事をなさり、また緩和ケアをしながら人の死を見つめていらっしゃると、死に対する考えも変わっていきますよね。
中川 人生には限りがあります。もしも死を意識するがんにかかったとしたら、自分にとって何が本当に大事なのかを考え、これから先、今まで以上に良い時間を過ごしたいと考えるようになると思います。そして、生命に必ず終わりがあるように、現代のような文明社会もまた永遠に続くことはないでしょう。だから少しでも持続が可能になるように、今からどういう選択をしたら良いのか、真剣に考えるべきだと思います。一方で、原子力や放射線のように扱いが難しい技術こそ、事故を起こした日本が今後も新たな挑戦を続けていく責任があると考えています。
神津 情報に惑わされないために自分のものさしを持ち、何かを判断する場合には客観的で冷静な立ち位置で精査し、そして、終わりがあるからこそ、生きる意味をよく考えることが大切なのだと、つくづく思いました。
東京大学医学部附属病院放射線科准教授/緩和ケア診療部長
1960年、東京生まれ。1985年、東京大学医学部医学科卒業後、同学部放射線医学教室入局。助手、専任講師などを経て2002年から現職。東京大学医学部附属病院の放射線科で緩和ケア診療部長として活動しながら、がんの臨床医として活躍。さらに福島原発事故後は、一般の人への啓蒙活動にも務めている。『放射線医が語る福島で起こっている本当のこと』『放射線医が語る被ばくと発がんの真実』(ベスト新書)など著書多数。日本経済新聞に「がん社会を診る」、週刊新潮に「がんの練習帳」を連載中。