東日本大震災により甚大な被害を受けた東北地方にある女川原子力発電所は、福島と同じ高さの津波を受けたにもかかわらず、大事故に至りませんでした。その理由はなぜなのか、当時、所長をされていた渡部孝男氏(東北電力株式会社取締役副社長)から当時の現場の様子や、その教訓をいかに活かすかというお話を伺いました。その後、木元教子氏(評論家/ジャーナリスト)との対談が行われました。
東京電力・福島第一原子力発電所の事故が起こった時、同じ電力業界の者として、何かできることはなかったのかと、痛恨の極みでした。そして、地域の活動において、家庭でも職場でも、これから少しでもお役に立てることはないかとずっと考えてきました。東北電力は、1951年の創立以来、「東北の繁栄なくして当社の発展なし」をモットーにしています。日本海と太平洋に挟まれ、中央には山々が連なっているという厳しい自然環境の東北地方にあって、私たちは災害対応を最優先にしてきました。
2011年3月11日の地震発生時、女川原子力発電所の3基の原子炉はすべて自動停止しました。このうち、2号機は定期点検の最終段階で、直前に原子炉の起動開始をしたところだったため、すぐに100℃未満となる冷温停止もできました。地震が起きて1時間もしないうちに、高さ約13mの津波が到達。しかしフルパワーで稼働していた1号機、3号機も、地震発生から約10時間後には冷温停止状態に至りました。安全確保の基本であり最重要課題である、原子炉の核反応を「止める」、余熱を「冷やす」、放射性物質を「閉じ込める」という3つの機能が、有効に働いたのです。
同じ高さの津波が福島にも押し寄せたのに、女川ではなぜ安全に停止できたのかというと、3つの要因があります。一つめは、敷地の高さが海面から14.8mあったため、13mの津波をかぶらずにすみました。三陸海岸は歴史上、幾度も津波の被害を被っているので、発電所の計画時から津波対策が最優先されており、さまざまな専門的意見に耳を傾けて設計がなされました。その後も検証を重ね、防潮堤のコンクリートブロックの強化工事もしていたため、大津波から守られたのです。二つめは、冷却用ポンプのような安全対策に必要な機器は、港湾部ではなく敷地を掘り下げコンクリート壁で囲んだピットの中で保護されて設置していました。三つめは、外部電源5回線のうち1回線が確保されていたほかに、非常用ディーゼル発電機が使用できる状態にあったことです。
被害は最小限に食い止められたものの、2号機の原子炉建屋に急激な水圧を受けて下から浸水してきた時は、所員の叡智を持ち寄り、工夫しながら海水をせき止め、くみ上げ排水しました。また、安全停止した原子炉ですが、万が一のため交代でモニターの監視確認をし続けました。宮城沖地震の発生確率は90%以上と言われていたので、私たちの先輩たちが行ってきた防災対策の一つとして制御盤への手すりの設置があり、余震が起こる中でも、しっかりつかまってパネルの計器の点検ができたのです。そして、「平時は有事のように有事は平時のように」を心がけて、日々の訓練を重ねてきたことも功を奏しました。さらに、2007年の中越沖地震の教訓から、女川では震災前から免震構造の新事務館が建設中でしたが、同時に旧事務館の耐震補強も行っていたので、緊急対策室で正確な情報収集や伝達ができました。
地震発生当日の夕方には、女川町の小さな集落の人たちが着の身着のままでPRセンターに避難してきましたが、PRセンターは停電していたため、バスで迎えに行って敷地内の事務棟に受け入れ、毛布や石油ストーブで寒さをしのいでもらいました。最大時には364名に敷地内の体育館を避難所として提供し、最長で約3カ月の間、過ごした方もいました。人数が把握できたのは、警備員が受け入れ時に判断して、名前と連絡先を記入してもらっていたからです。誰もが、何が必要か自分で考えて動きました。情報が必要だというのでテレビを設置し、体育館を町の避難所として認めてもらい、みんなで協力しながら配給物資を配りました。
今回の震災の教訓として感じたのは、日頃からの訓練や取り組みに、無駄は一つもないということです。また平時には、事前に誰が何を得意としているのかを把握しておき、災害時の現場ではそれぞれ得意な分野の人の意見を聞いて、一致団結して冷静に対処することです。1755年にポルトガルのリスボンで起こった大震災では、東日本大震災と同程度の津波が押し寄せ、津波と火災で約6万人が亡くなっています。人災ともいわれたこの震災後、当時の宰相は、災害に強い町づくりを積極的に推進しました。また、地震は神が引き起こすもので人間にはどうしようもないと言われていましたが、ドイツの哲学者カントは、自然の原因から地震は起こるという仮定に基づきメカニズムを解明しようとし、ここから近代の地震学が始まったそうです。今回の地震では、原子力発電の功罪のうち罪のほうのみが注目されていますが、私たちは多くのことを学びました。失敗は失敗としてしっかり受け止めながら、私たちの役割としては、今後も安定した安い電気をどのようにしたら供給できるのかを考え続け、その思いを皆さんと共有できたらいいと思っています。
木元 私たちは日常生活で発電所の存在をあまり意識することはありませんが、事故が起きて停電になったりすると、とても驚きますね。どうしたのかと・・・。
渡部 発電設備は機械ですから、故障もしますし自然災害の影響も受けます。だから、電力会社は太平洋側、日本海側に分けて発電所を作っておいて、バックアップ体制にしています。東日本大震災時には、地震、津波で太平洋側の原子力以外の火力、水力などの発電所は大きな被害を受け、約466万軒が停電しましたが、日本海側の発電所から電力を融通し、3日後には80%まで復旧しました。
木元 日本には10の電力会社があり、沖縄を除くと、いざというときに、お互いに融通しあえるんですよね。地域では独占体制といわれているけれども、電気事業法により、安定的に供給しなければならない義務を負っていますから、各地に発電設備を分散して設置し、一貫して発送電が行われてきたわけです。でもこれからは、発電、送電、配電を分離する案がありますね。分離すると停電などということにならないでしょうか。
渡部 確かに発送電分離になると、よほど連携をうまくとらなければ、災害時などの復旧に、速やかに対処できるかどうか心配です。
木元 今は、九州から北海道まで、すべてつながっていますから、どこからでも電気をもらえるわけですが、ただし、関東、関西では周波数がちがうので、周波数変換装置が必要ですね。でも変換できる量には限りがあるそうですが、変換所は増やせないのでしょうか。
渡部 明治時代に初めて大型の発電機を輸入する際に、西日本がアメリカから60Hzの発電機を、東日本はドイツから50Hzのものを導入したため、東西で周波数が異なるようになりました。近年は、家電製品も両方で使えるタイプが増え便利になっていますが、送電時の周波数変換は電力のロスが大きいのが問題です。
木元 福島の事故を受けて、これまで日本の電力の約30%を占めてきた原子力発電がほとんど停止してしまいました。発電所の所員の方たちの士気は下がっていないでしょうか。
渡部 東北電力では、女川と、女川の前に私も所長を務めたことのある東通の両発電所が停止しています。ところで、私の実家は福島県南相馬市で、現在も宿泊はままならず日帰りしかできませんが、実家の後片付けに行って、避難生活が続く近所の人に話を伺うと、原子力発電のことは理解したいけれど、やはり怖いという声が聞こえてきます。しかし、資源がない日本では、10年、 20年後に、安全性を高めるという条件付きで原子力発電が稼働している場合と、稼働していない場合の社会状況を想定して真剣に議論すべきだと思います。そして、野球に例えるなら、皆さんの応援を受けながらこれまではレギュラーで試合に出ていた原子力だけれど、今は故障者リストに入っている。でも試合が始まって指名を受けたときにすぐに出場できる体力をつけておくのが、私たちのやるべき仕事だと思っています。また、これまで培ってきた技術を捨ててしまうのは、日本人の美徳である「もったいない」精神に反するのではないでしょうか。
木元 日本とよく比較されるドイツですが、原子力発電廃止の方向に進んでいるといっても、電力不足になれば、原子力発電でつくられた電力をフランスから融通してもらえます。送電線が全部つながっているヨーロッパ大陸と比べて、島国日本はどこからも電力を融通してもらえないわけです。
渡部 また、太陽光、風力などの再エネの電力は安定していませんから、安定した電気を供給しつつ安価にするには、ベースロード電源をどれだけ安くできるかにかかっており、ベースロード電源として重要になるのが原子力であり、石炭火力です。
木元 でも、石炭火力はCO2排出量が多く、原子力はほとんどゼロですよね。
渡部 震災直後は、古い火力発電所でもどんどん発電していくということでしたが、これ以上の石炭火力は地球温暖化問題にとってどうかということになってきます。
木元 ジャパンプレミアムという言葉があります。日本が高い資源価格でも買わざるを得ないので、他の国も日本の高い価格を要求されるとかで、早く日本が原子力発電を稼働してほしいとも言われているようですね。
木元 電気はいつも通っているのが当たり前で、停電すると「どうしたのか」と、すぐにクレームをつけたくなりますが、実は停電の復旧は大変なんですよね。
渡部 家庭のみならず、産業の基盤を維持しているのが安定した電力供給であり、そもそも停電が少ないことが、一国の文明の尺度だといわれています。
木元 ところで、来年4月には全面的に電力の小売が自由化になると、東京に住む私は、今は東京電力と契約していますが、東北電力との契約もあり得るでしょうか?
渡部 その可能性もありますが、電力会社は基本的に、供給する地域で設備を調達し、地元の人的パワーを借りて、地域とともに歩むべき存在だと思います。
木元 台湾へ電力施設の見学に行った時に、たまたま電力会社主催で年に数回行っている催し物が開かれていました。地域の方たちが数多く参加し、音楽会や食事会には、所長のお母さんも手伝っていらして、まさに家族ぐるみで電力をサポートしているのだなと、大変親しみを感じました。
渡部 日頃から地域の皆さんとコミュニケーションを図ることがまず大事だと思っています。大地震の教訓として、防災や避難についていちばん反省すべき点の一つに、自治体の機能喪失がありました。どこに誰が避難しているのかわかるまで時間がかかり、安否確認がなかなかできなかったのです。今後、個々人の避難状況を一早く把握し集約させ、情報を発信できるよう、マスコミと協力しながら、電力会社が自治体のサポートをできないだろうかと、防災計画を模索しています。自然との戦いを続けてきた電力会社だからこそ、蓄積されたノウハウを生かせればと思います。
木元 発電所や電力会社の支社などは、いちばん避難しやすく連絡が取りやすい場所かもしれませんね。地域とともにある電力、電力とともにある私たちの生活ということを、これからも忘れずに、エネルギー問題を冷静に前向きに考えていきたいと思います。
東北電力株式会社取締役副社長
東日本大震災当時(2011年3月11日)、東北電力(株)女川原子力発電所長。1号機計画時から津波対策が最優先され、建設後も随時対応してきた結果、東日本大震災の震源に福島第一原子力発電所を襲来した津波とほぼ同じ高さの13mの津波からも守られた。地域の住民の方たちと積極的なコミュニケーションを図ってきたため、多くの被災者の方々が発電所を頼って避難、避難者は最大364名にもおよんだ。また、2013年5月には、原子力発電所の安全な運営に卓越して貢献した人物を対象に厳正な選考を経て授与される、世界原子力発電事業者協会(WANO)原子力功労者賞を受賞。
評論家/ジャーナリスト
TBSアナウンサーからニュースキャスターを経て、フリーコメンテーターとなり、その後、エネルギー・環境、教育、女性、高齢化、農業問題など幅広い分野で、主に報道番組などへの出演を続け、講演、評論、執筆などを行っている。1998年〜2006年の9年間、女性として初めて、内閣府原子力委員会委員を務める。
現在も経済産業省をはじめ、多くの審議会委員などの公職も務めている。
絵本「100年後の地球」、「六カ所が目指すこと」など著書多数。平成19年春の叙勲で、旭日中綬章を受賞。