日本における食の問題の変遷を見ていくと、戦後すぐには、カロリーや必須栄養素の摂取と肺結核予防が何よりも課題になっていました。そのあと、感染症や食中毒防止という衛生管理の問題が問われるようになります。また高度経済成長期には、公害による被害、たとえば工場排水に含まれていたメチル水銀に汚染された魚介類摂取による水俣病、鉱山からの排出水に含まれていたカドミウムに汚染された米の摂取によるイタイイタイ病などが、大きな社会問題になりました。
その後は、農薬や着色剤など添加物の有害性、ダイオキシン、PCBなど環境ホルモンの有害性が問われる一方、乳製品や食肉問題もありました。そのほかにも、健康食品やサプリメント摂取による健康への逆効果の懸念や、遺伝子組み換えなどの新技術による将来にわたる影響などいろいろあります。そして2011年からは、原発事故による放射性物質が新たな大問題になりました。
近年の日本においては、細菌による食中毒は減少してきていますが、ノロウイルスや腸管出血大腸菌O157による食中毒は増加しています。食中毒による死亡者数は、日本では年間平均4人であるのに対し、アメリカでは5,000人にものぼっています。しかし日本の場合は、1人死亡ならば1人と計上するところ、アメリカでは、実際に報告された死者数に、届け出はなかったものの関連があると思われる推定死亡者数まで加算する考え方を取っており、こういったアメリカ的な発想で数値を公表した方が適切ではないかと、私は考えています。
日本人の平均寿命はこの100年の間に40年も伸び、80才を超えるようにまでなっています。その理由は食生活が豊かになり、公衆衛生が行き届いたことによるのは確かです。
日本人の死因別に見た死亡率において、30年以上もトップになっているのががんです。疫学的に見ると、がん死の原因の約35%を食生活が占めていますが、食品添加物ががんの原因として占めるのは1%にも満たないごくわずかです。
食品添加物や農薬、化学物質の規制も、リスク削減に効果を発揮しました。規制には、ハザードベースの規制とリスクベースの規制があります。リスクベースの場合は、リスク評価を基礎にしているのですが、その一つにハザード比を用いた評価があり、用量反応関係に閾値(しきいち)が存在する場合に、この方法が使われます。
閾値ありの場合、一日の摂取量を一日の許容量で割った値を、ハザード比といい、これが一より大きければ「リスクあり」、一以下ならば、「リスクなし」と判定します。しかし、ハザード比を使っているリスク評価では、他のリスクとの比較ができません。
トウモロコシ、豆類、香辛料などに発生するカビが作り出す毒素のアフラトキシンを例に取って説明します。アフラトキシンは高温多湿な地域に発生しやすく、発がん性が高いといわれており、発生抑制のためにEDBという殺菌剤を使用してきましたが、こちらにも発がん性があることが判明したために禁止し、そのほか、予防のために使用されていた臭化メチルも、オゾン層を破壊するという理由で使用できなくなりました。それでは放射線照射が効果的だといっても、放射線に対する反対の声が上がります。アフラトキシン抑制が最重要であるにもかかわらず、戦う「武器」がすべて封印されてしまうと、手も足も出せなくなります。だからこそ、多様なリスクを比較するための評価が必要になり、最優先すべきリスクを見極めなければなりません。
リスクは決してゼロにはならないのに、日本人はリスクゼロを要求しがちなため、あたかもリスクゼロに見えるような仕掛けが多くあります。その一つが、BSE問題における全頭検査です。BSEが発症するまでには6~8年近くかかりますが、食肉にされる対象というのは、およそ生後2〜4年の牛ですから、若い牛を検査しても、たとえ感染していても見逃してしまうので、ほとんど意味がありません。にもかかわらず、「全頭検査をしているからリスクはゼロで安心」と見せかけているわけです。
1947年に制定された食品衛生法から半世紀を経た2003年、食品安全基本法が制定され、と同時に食品安全委員会も内閣府に設置されました。規制や指導などのリスク管理を行う関係行政機関から独立し、科学的知見に基づいた中立的な立場でリスク評価を行っています。福島第一原子力発電所の事故後、食品安全委員会は、「100ミリシーベルト未満の線量の放射線による健康影響について言及することは、現在得られている知見からは困難」と発表しました。つまり、結論が出せなかったわけです。
一方、厚生労働省は、コーデックス委員会(註)が提案している、食品から受ける放射線の許容線量を年間1ミリシーベルトとする規格に基づき、食品中における放射性物質の基準値として、放射性セシウムが、飲料水ならば1kg当たり10ベクレル、牛乳なら50ベクレル、そして一般食品は100ベクレルとしました。ところがコーデックスの基準は、一般食品は1kg当たり1,000ベクレル、日本の約10倍になっており、日本の基準値はアメリカやEUと比べてもとても厳しいものです。
(註:国際食品規格委員会。国連食糧農業機関(FAO)と世界保健機関(WHO)が設立した、食品の国際基準を作る政府間組織)
1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故では、汚染された草を食べた牛から作られた牛乳など地元の食物を多く摂取していたために、内部被ばくが問題となりましたが、今回の日本での福島第一原子力発電所事故による放射線汚染の場合は、すぐに食品の出荷規制を行ったため、食品による内部被ばくによる影響はあまりないです。また、環境ホルモンのダイオキシンのような化学物質の場合には、どういう作用があるか分かりません。生物すべてのホルモンの働きを狂わせ、まったく新しい毒性が発生する疑念があるとも言われ,皆大騒ぎをしました。しかし、人間は数十万年自然放射線にさらされてきましたから、その影響はすでに出てしまっています。また、広島長崎での被ばくの影響についても多くのデータが蓄積されており、新しいリスクが現れることはほぼないと考えられます。
今回は、風評被害が大きな問題になっています。2011年に市場に出回らなかった福島県産の米は、損害分を国が買い上げています。市場に出たのに風評被害で売れなかった分までも国が補償していくと、買取金額は1,000億円近くになります。これは結局、私たちの税金で支払われることになるわけですから、消費者団体などは、科学的根拠をよく理解した上で、むしろ販売を促進するなどの活動を起こすべきではないかと思います。
これまで国は、国内の農作物のみならず輸入農作物についても、国民の健康被害リスクを回避するためにさまざまな規制を設けてきましたが、今後、TPP交渉などの場において、日本の農作物を輸出するために国際的に通用するリスク評価の検討が必要になってきます。その折には、絶対安全はありえないということが前提条件になります。たとえば収穫後の農作物の輸送や貯蔵中の病害虫防止のための農薬、あるいは成長促進ホルモン剤などの化学物質に対し、すべてを禁止するのではなく、リスクを認めた上でのガイドライン作りを諸外国と交渉しなければならなくなります。そして私たち国民もまた、リスクというものを正しく把握する必要があると思います。
独立行政法人産業技術総合研究所フェロー
1938年、中国大連市生まれ。61年、横浜国立大学工学部化学工業科卒業。67年、東京大学大学院工学系博士課程修了。東京大学工学部助手、東京大学環境安全研究センター教授、横浜国立大学環境科学研究センター教授、独立行政法人産業技術総合研究所安全科学研究部門長を経て、現在に至る。専門は環境工学、環境リスク評価。工学博士。横浜国立大学名誉教授。紫綬褒章受章(2003年)、文化功労者(2010年)、瑞宝重光章受章(2013年)。