私たちは、多様なジャンルの情報をマスコミから得る機会が多くあります。中でもテレビは、リアルタイムに、かつ映像によって情報が流されるため、社会に大きな影響を与えています。40年以上にわたり、テレビのニュースにかかわっていらっしゃる岩田公雄氏(読売テレビ報道局/特別解説委員)に、ニュース取材の現場情報や、海外取材から見えて来る日本について、またテレビというメディアを通して伝えようと心がけていることなど、お話を伺いました。
生まれも育ちも北海道だった私は、大学進学で東京に出て来ましたが、当時は学園紛争が盛んな時代で市街戦もどきの騒動が頻発しており、カルチャーショックを受けました。しかしその後、就職活動の時には、こうした出来事の現場に立つ仕事に就きたいと思うようになり、電波メディアを希望して、大阪の読売テレビに就職することになりました。
政治、経済、外交といった取材部署がある東京とは異なり、大阪は社会部の取材が中心で、広域暴力団の動きを追う警察の捜査四課担当になり、組関係の事務所で脅されるといった体験もしました。その後、暴力団に流れている武器のアジト取材のためフィリピンに赴き、任務を完了させ帰国する直前に、今度は三井物産マニラ支店長誘拐事件が起こりました。日本テレビ(NNN)系列の記者でフィリピンにいたのは私だけでしたので、初動4日間は寝ずに働き、ようやく現地に到着した取材スタッフにバトンを渡して帰国したのですが、当時のフィリピンといえば、アキノ大統領就任後も軍による反乱が続いていました。そこでNNNでは常設の支局を現地に作ることになり、支局長として3年務めることになりました。
世界中のいろいろな現場に出向いて取材をしてきましたが、死を覚悟して取材をする必要を感じたのが、1989年6月の天安門事件でした。市民に向けての無差別発砲や装甲車でひき殺したといわれているほど過酷な現場では、8mmビデオをバッグに隠し入れて撮影をしていましたが、あまりに危険なので現場を離れるよう日本から指示が出ました。しかし、知り合いになった欧米の記者から、ジャーナリストは現場を自分の目で見つめて、嗅ぎわけ、客観的な視線で伝えることが役目ではないのかと言われ、おこがましいようですが自分も、テレビを見ている皆さんの代わりに取材対象に肉薄していこうと決意したのです。 1989年といえば、日本はバブル経済の終わりにさしかかりながらも、マネーに浮かれていた時代で、日本に戻った時に違和感を抱いたことを覚えています。
その後、91年から2年間続けて北朝鮮の取材をしましたが、国家を挙げたマスゲームのような、朝鮮労働党によるお仕着せの取材ばかりだったので、一般の人がどういう生活をしているのか見たいと要求したところ、集合住宅に住む主婦を取材させてもらえることになりました。部屋の中からベランダにふと目をやると、乾燥トウモロコシがあり、「これを食べるのですか」と質問したところ、主婦の答えは途中で打ち切られてしまいました。国民生活の貧しい実態を覆い隠し、国としての体面を保とうとしているのは明らかでした。夜になって軍の幹部の人たちと飲んでいるうちに、私が拉致被害者のことをつい口にしてしまったところ、相手は青筋をたてて怒り出し、上層部と連絡をとり始めたので、もしかすると強制収容所に抑留されるのかと冷や汗が出ましたが、数時間後になんとか解放されました。北朝鮮が拉致の事実を認め、拉致被害者のうち5人が日本に返されたのは、それから11年経った2002年、当時の小泉首相の電撃訪朝後のことです。天安門事件と北朝鮮での取材は今でも夢に出て来るほど、過酷な体験でした。
また、今、話題になっている集団的自衛権の問題ですが、自衛隊は、国連平和維持活動(PKO)として、1996年から2012年まで、イスラエル、レバノン、ヨルダンとシリアの国境に広がり、今もイスラエルとシリアとの間で争いが続いているゴラン高原に派遣されていました。私が取材に行った時に、自衛隊の指揮官に「もしここでイスラム過激派が襲ってきたらどうしますか」と尋ねたところ、「速やかに防衛庁と連絡をとり合って、敵の勢力に対応する案を綿密に練ります」と、苦しい答え方をしていました。つまり、死ぬかもしれない状況でも、憲法第9条の制約があるから、戦闘行為に加担することができないのです。国会における集団的自衛権をめぐる机上の論議とは、かけ離れた現実があるということは、実際の現場に行かなければわかりません。
異なる宗教による対立というものは、日本人には想像もつかないものです。イスラエルの首都エルサレムには、ユダヤ教の嘆きの壁、キリスト教の聖墳墓教会、イスラム教の岩のドームという、世界の三大宗教の聖地がわずか1km四方内にあり、どちらの側にインタビューをしても、この地は我々のものだと断言します。紀元前にまでさかのぼる歴史から現代にまで残された宗教による争いの種には、暗たんたる思いになりますが、これも世界の真実なのです。
記者にならなかったら目撃することもなかった悲惨な現場のひとつには、ルワンダもあります。1990年から93年にかけて、ルワンダでは、フツ族とツチ族の対立から、50〜100万人ものツチ族の大量虐殺が行われました。しかし取材先では実際に虐殺を見た人に出会えなかったので、車をチャーターして現地まで案内してもらうことになりました。6時間かけてたどりついたタンザニア国境近くの街では、教会の前で多くの人が殺されたままミイラになりかけていました。数多くのもの言わぬ人たちが夕陽に照らされた、美しくも残酷な光景は、今もなお、心に重く残っています。幸いその後、ツチ族、フツ族は和解し、現在は、ITを駆使したアフリカの奇跡といわれるほどの優等国に向かっています。
1992年からは東京勤務になり、以来22年間というもの、日本の政治を見つめてきました。93年には自民党から離党した第三極がブームになり、衆院選で単独過半数を獲得できなかった自民党は、結党以来、初めて野党になり、細川連立政権は翌年の4月末まで続きました。しかしその後、社会党党首村山氏を首相に迎えた自民党は、さきがけと3党で連立与党に復帰し、2001年からの小泉政権は5年5カ月も続きました。そのあと、安倍氏、福田氏、麻生氏と1年ごとに首相が交替しながら、その間に総選挙はありませんでした。2010年の総選挙では、93年と同じように国民が変化を求めていたため、民主党政権になったわけです。3年3カ月の間に、鳩山氏、管氏、野田氏と首相は交替し、結局、国民の期待は裏切られた形で自民党政権に戻り、第二次安倍政権は、アベノミクスが功を奏し順風満帆な三年目を迎えようとしているように思います。
実は、安倍氏が二度目に首相になる前に話を伺う機会があり、もし自分がもう一度、首相になれたら、第一次政権で足りなかったこと、できなかったことを考え抜いているので、ぜひとも実現したいと言っていました。それは、戦後レジームからの脱却、つまり日本にとってGHQによって押し付けられた形の憲法の見直しを図り、改めて国民に問うた上で変えていきたいという願望でした。今回の師走の総選挙によって、自民党を盤石な体制にして、トータル6年間の首相の任期を見据え、中長期政権を目指していると思います。今後、安倍首相が、真の名総裁と称されるためには、内政問題以上に、中国、韓国と関係が悪化している外交問題を進展させ、また、エネルギー需要について原子力を含めどのような形で賄っていくのか、きちんと国民に提示する責務を果たすことも重要だと思います。一方で、東京、大阪、名古屋という三大経済圏への集中化を分散し、地方創生の手腕も発揮してほしいと思っています。
取材によって世界各国を体験したことで、この国が見えてくることがあります。私が単独会見を果たせたミャンマーのアウン・サン・スー・チーさんが、軍事政権下で2010年までの間に幾度も自宅軟禁状態に置かれていたように、民主主義や人権が守られない国が世界にはまだたくさんあります。日本は、バブル後の失われた20年といわれていますが、私たち自身、失望感を持ちすぎていないかと感じています。歴史や伝統、勤勉実直で礼儀正しい国民性、長寿で健康、教育により培われたすぐれた能力、国の隅々まで行き渡ったインフラ、そして美しい風景を誇りに持てる日本は、真に豊かな国であると自覚し、日本人にも潜在能力がまだあると信じることが必要ではないかと思います。そして、こういう国だからこそ、いろいろな知恵を絞り出して、何が最適なのかをしっかりと議論しながら、エネルギー政策も進めていければいいと、願っています。
読売テレビ報道局/特別解説委員
1949年北海道生まれ。学習院大学卒業後、読売テレビ入社。事件記者として、グリコ森永事件等国内の重要事件を担当した後、87年にNNNマニラ初代特派員となり三井物産若王子マニラ支店長誘拐や日本赤軍潜伏事件、89年6月の中国・天安門事件では惨劇事件の現場で取材に当たる。92年からは読売テレビ制作「ウェークアップ!ぷらす」の解説者としてレギュラー出演するほか、「情報ライブ ミヤネ屋」の解説員としても出演。著書に『30秒で人を動かす話し方』(PHP新書)、『テレビで言えなかったニュースの裏側!―報道現場から世界の真実が見える!』(学習研究社)などがある。