福島第一原子力発電所の事故を経験して以来、日本国内では、原子力に対して批判的な考えと、再稼働を含め推進を維持する考えとに、両極化したように思えます。そして、両者が同じ土壌に立って話し合う可能性は少なく、議論は平行するまま現在に至っています。原子力の安全をどのようにとらえ、どのようにしたら話し合いへの歩み寄りができるのか、原子力にかかわるコミュニケーションのあり方について、北村正晴氏(東北大学名誉教授/(株)テムス研究所所長)にお話しいただきました。
私は、原子力と人間、広義でとらえれば、機械と人間とのかかわりをより良い形にしたいと、研究を続けてきました。そういう経歴の人間ですから、原子力に対してどちらかといえば肯定的ですが、今、日本中で見られる、原子力に対する疑惑という民意を変えるのは、容易ではありません。こうした原子力問題における困難さを自覚しながら、これまでできる限りコミュニケーションを図る活動を続けてきたつもりです。ここ六ヶ所でも、地域の皆さん10数人ほどと一緒に安全についての話し合いの場を繰り返し設ける一方で、大規模なフォーラムにおいても、推進、反対の両者を招いて、討論の場を作ってきました。
福島第一原子力発電所の事故以前、原子力批判論は事故の起こる可能性を主張し、推進論はその可能性が無視できると主張していましたが、事故後、推進論はその根拠を失います。起こらないはずだった事故が現実のものとなり、これからも再発する可能性があるという考えが合理的と判断されたわけです。その一方で推進論は、化石燃料輸入費増大による国富流出や電力料金高騰による産業の空洞化などが危機的だと論理を展開しています。しかし、安全性と経済性を同レベルでとらえることは不適切です。今は原子力は本当に危険なのかそうでないのか、論拠に基づいた議論がなされておらず、理屈がかみ合わないままに再稼働の可否が問われています。
原子力問題における対立は、産業革命以降、科学技術が社会に与える影響が増大してきたことと、大きく関連しています。技術の光の部分が強ければ影はよりいっそう濃く暗く、企業や役所といった技術にかかわる組織への不信もその原因となっています。食品、薬品、土木建築などあらゆる産業において、社会の信頼を裏切るような事例が日常的に起こり、インターネットなどITの世界では、国家機密の漏えいという大問題もあり、技術がもたらす社会への影響は、誰もが脅威に感じています。そのような中で、原子力という巨大な技術がもたらした事故により、不安や憤りが比例して大きくなっているのは当然です。しかも現代のリスク影響は、放射能汚染はもとより伝染病や気候変動、環境破壊など、特定地域で起こった問題にとどまらず、地球規模で拡散する可能性が大きく、予測が困難になっています。だからこそ、原子力問題は、日本に限らず世界という大きな文脈の中で考えることが必要ではないかと思います。
再稼働判断は、科学技術によって安全性を格段に向上させることが大前提であり、さらには、その安全の実態を社会が了解することも前提になります。しかし安全はアカデミックな概念として扱いにくいものです。安全とは危険がないこと、受け入れられないリスクがないこと、という言い方がありますが、何かがないことが安全だとしても、ないことを立証するのは難しいからです。だからこそ、安全とは何かについて具体的に共有するために、市民の参加が重要になってきます。
1972年にアメリカでは、物理学者A・ワインバーグ博士が「トランスサイエンス問題」という概念を提唱し、「原子力と社会の間の問題は、科学の言葉で問うことはできるが、科学的手段では解決できない」と言っています。1996年には、米国科学アカデミーが、リスク評価について「本質的に政治的、倫理的、価値認識的依存という性格を持つ活動であり、だからこそリスク評価を踏まえてなされる意思決定の結果に影響を受ける市民の参加が欠かせない」とし、市民参加の重要性を明言しています。一方、日本の原子力界では、自分が所属する組織、集団を絶対化し、その考えが正しいと思い込む、ノシズム(Nosism)によるものなのか、市民参加についてほとんど言及されてきませんでした。集団的エゴイズムともいえるノシズムは、社会の脅威にもなりかねないので、異なる考えの持ち主と対話し暴走を制御する必要があります。たしかに対立する相手との議論は苦痛を伴いますが、相手から示唆を受けたり、新たな視点が生まれる貴重な機会にもなります。ヘイトスピーチに見られるように、現代は不寛容の時代といわれています。しかし、どのような主張をする場合であっても、相手の意見に耳を貸さないような議論の方法は、不健全だと思います。
原子力の問題に関しては、安全・危険の二元論で判定する限り、いつまでも議論がかみ合いません。異なる考えが少しでも歩み寄れるように、まずはじめに、安全の実態を吟味していきたいと思います。福島第一原子力発電所の事故後、原子力施設の脆弱さが明らかになったと批判する人は少なくありませんが、福島第一原子力発電所の1〜4号機のみを基準にして原子力は危険だと断定してしまうのは、性急すぎではないかと思います。同じような津波被害があった東北電力女川原子力発電所は、高い敷地に建てられていたこともあり、5つある外部電源のうち1系統が使用でき、また非常用ディーゼル発電も使用可能だったため、被害を抑えられました。また、日本原子力発電の東海第二原子力発電所においても、2007年に茨城県が防災対策を見直して、津波の高さを従来より高く評価し、この評価を真剣に受け止めた日本原電が新設の堰を作っていたため、2台の非常用ディーゼル発電が使用可能で、甚大な被害にならずにすみました。福島第一原子力発電所でさえ、1、3、4号機の建屋の水素爆発後、5、6号機の建屋にも緊急にベントホールを開けようと、所員が地元工務店の方と連携して、爆発の危険も懸念された中で工事を行っています。このように、現場の人たちの予測と対応努力によって、より深刻な事態になることを免れています。通常状態(安全)から事故(危険)に至る過程は何段階もあり、各段階で適切な手段を用いることで防護できるようになるのです。
政府の事故調査委員会による報告書には、シビアアクシデント対策の不完全さの原因として、「これまでずっと安全だと断言していたので、シビアアクシデントの対策について話し合う機会を持てなかったから」という政府高官の談話が記されています。安全だと思っても事故は起こるかもしれないとあらかじめ地域住民に告知することが、安全についての正しいとらえ方だと、私は思います。そして、安全と危険の多段階的なとらえ方を対話によって共有できたとしても、それだけでは不十分で、相手の組織が信頼できるのかという問題があります。信頼がなければ、いくら言葉を重ねてやりとりしてもコミュニケーションは成立しません。そして信頼を獲得するためには、長い間の実績が必要であり、失うときにはたった一つの事例で十分というのも事実です。そのような中、原子力への信頼が失われている現在、回復するためには監視と制裁体制の導入も必要という意見もあるほどです。
福島第一原子力発電所の事故原因は解明されていないといわれますが、大きな要因は、電源の喪失と熱の捨て場所が失われたための冷却機能不全だったことは、すでに解明済みであり、対応する防護策も着実に進められています。また想定外の事象はこれからも起こりうる可能性があるので再稼働に反対という主張も聞かれますが、福島第一原子力発電所の事故を想定外の出来事とみなしてはならないのです。事故は起こることを前提に、的確な対応を施しておけば、安全は格段に向上します。また、事故が起これば大災害になるから受け入れられないという意見に対しては、福島第一原子力発電所の事故の本質は人災であり、人災であるならば組織として適切な対策を講じることで防ぐことは可能だと考えています。
原子力への理解を図るには実態を正確に知り理解した上で、意見の異なる人同士が、対話というコミュニケーションによって、原子力という技術の本来あるべき立ち位置を明解にしていくことが真髄ではないでしょうか。その際、互いの意見に同意はしなくても、その主張を傾聴し回答を急がず、時間を共有することが大切です。また専門家はわかりやすく真摯に説明し、それを受けて判断するのは、国民(または政治)の役割だという見方も共有すべきです。また立地地域の皆さんは、地域コミュニティにおいて、推進、反対で立場が異なる場合、人間関係がうまくいかなくなるなど、長年にわたり多くの苦労を重ねられている方もおられると思います。しかしその場合にも、適切な対話の場を設けることにより、たとえ立場は違っていても、たとえば地域の子どもたちに明るい未来を作りたいといった共通する目標を持って、話し合いを進めることが可能ではないかと考えます。原子力の安全についての議論は、簡単には結論が出ないものですし、遠回りをしているようにも思えますが、対話によるコミュニケーションという方策をこれからも進めていけたらいいと私は思います。
東北大学名誉教授/(株)テムス研究所所長
1942年生まれ。70年、東北大学大学院工学研究科博士課程(原子核専攻)終了。92年から東北大学工学部教授、2004年から東北大学未来科学技術共同研究センター長を務め、05年定年退職、東北大学名誉教授、東北大学未来科学技術共同研究センター客員教授。12年から(株)テムス研究所代表取締役所長。専門は、原子力安全工学、計測工学、ヒューマンファクタ、リスク評価・管理学など。