エネルギー自給率が低い国であるにもかかわらず、これまで日本は、エネルギーをふんだんに使って豊かな生活を築き上げてきました。しかし原子力発電所が停止している現在、エネルギー政策についての再検討を迫られるとともに、私たちのこれからの生活スタイル、ものの考え方についても、見直しをする時期に来ています。大宅映子氏(評論家・公益財団法人大宅壮一文庫理事長)に、世界の状況を踏まえながら日本が取るべき方向性について、生活者の視点でお話を伺いました。
最近の若者は「さとり世代」と呼ばれているそうですが、ブランド品に興味がない、車もいらない、何も欲しくない、海外旅行にも行きたくない、そこそこの暮らしで満足していると聞いています。バブル後に生まれ、ものに囲まれて育ってきた世代を動かすようなインセンティブがなくなっているわけです。私の子どもの頃は、たとえばバナナを食べられるのは運動会と遠足の時のみで、お客さまがおみやげに買ってきてくれるととても嬉しい、そんな時代でした。大学生の時には、親にねだっても買ってもらえなかった車がどうしても欲しくて、たくさんの懸賞に応募した記憶があります。
豊かになりすぎて欲望がないというのは、本当にかわいそうだと思いますね。やる気も薄れ、何もしないから体験不足になり、ちょっと危険だと親がすぐ反対するので、自分で判断できなくなります。食品についていえば、食糧自給率が約39%の日本で、山のような食品廃棄が起きており、記載された賞味期限が過ぎるとすぐに捨ててしまいます。昔ならば、匂いをかいで少し口に入れて、傷んでいないようなら火を通して食べてしまいました。また、自動運転の車が当たり前の時代にでもなれば、日本に限らず、世界中で安全管理がシステム化され、そのうちに自分でやらなければいけないことを忘れ、五感を使って危険回避する能力がなくなってしまうと思います。
私が四年制大学を出た時は、女子の就職口はまだ公務員か教師かという時代でした。それでも社会において女性の意見が少しずつ求められるようになったせいか、共働きで子育てをしていた私に、テレビ局から女性の視点で報道番組のコーナーを担当しないかと、声がかかりました。しかし、女の立場でものを見たり伝えたりすることを求められ、少し違和感を感じ、やがて一個人としてものを言いたいと思うようになりました。公の場で発言を求められると、多くの人は、所属する企業、各種団体、居住地域などの論理で発言し、結局は、大声で発言する組織人の総数意見で物事が決まり、発言する場を持たない人の意見はどこにも届きません。国、企業は豊かになったというけれど、個人が豊かになっていない原因は、個人としての発言をする機会があまりないからともいえます。
公の場で発言を求められる時のもう一つの私のスタンスは、地球サイズの視点で発言するということ。1992年にブラジルで開かれた環境と開発に関する国連会議(地球サミット)において、キューバのカストロ首相は途上国の代表として、「地球の共有財産である資源をこれまでたくさん使って、環境をこれほど汚染してきた先進国側が、もう化石燃料は使わないようにしてくれと私たちに向かって言うのなら、昔の状態にまで戻してから提言してほしい」と発言しました。まったくその通りだと思います。現在の日本を振り返ると、原子力を含まなければエネルギー自給率4%であるにもかかわらず、真夏に白菜を入れた鍋料理を食べたり、真冬にイチゴが載ったショートケーキが食べられるというように、一年中、季節感なく野菜や果物が手に入ります。たとえニーズがあるにせよ、エネルギーの大量消費による生産が、本当にいいのだろうかと疑問に感じます。
これまで日本は、約30%の電源を原子力によって賄っていました。1957年に東海村に初めて「原子の火」がともった当時、原子力は日本の希望でした。ところが1970年代頃から反対運動が起き、今では、反原発の勢いが高まっており、原子力がなくても日本のエネルギーはなんとかなる、という人もいます。しかし原子力発電の分を現在は燃料代の高い火力発電で補っているから、停電にならずにすんでいるのです。そのため石炭、石油、天然ガスの輸入コストが3.6兆円も増加し、今、日本は貿易赤字に陥り、かつCO2排出削減も棚上げ状態になっています。エネルギー資源も少なく自給率の低い日本にとって、原子力は必要な電源であり、国民の財産だったはずです。とはいえ、即稼働させた方がいいとは思いません。なぜならば、福島第一原子力発電所の事故原因について、いまだに統一見解が明示されていないからです。その一方で、福島より少し高所に位置していた女川原子力発電所は大事故に至らず、住民の避難所にさえなっていた事実は、あまり知らされていません。つまり、一つの原子力発電所の事故によって、すべての原子力発電所を止めてしまうというのは、あまりに短絡的ではないかと思います。
安全とは確率の問題です。0.001%のリスクがあれば、科学者は100%安全とは断言しません。だからこそ、起こる可能性があることを前提に、被害を最小限にとどめるための危機管理を行うわけですが、悪いことを考えたり口にすると実際に起きてしまうという日本独自の言霊(ことだま)の発想があり、そのために原子力発電所からの避難訓練を実施しようとしても、「やはり危険があるんですね」と反対派から指摘され、実施が思うようにいきません。このように現実を直視しない日本の風土を作り出したのは、私たちの責任でもあると思います。ですから、これまで通りたくさんのエネルギーを使って豊かな生活を維持しながら、安全第一を目指すあまりに原子力を放棄するというのは、ありえない選択だと思います。
感情的に原子力発電反対を掲げている人たちに対し、科学的根拠を挙げても説得しづらいのは、放射能というものが、一般の人にはわかりにくく難しいからです。子どもの安全を考えて「放射能のないところへ行きたい」というお母さんがいましたが、放射線は地球上どこに行っても存在し、人間は一人当たり世界平均で年に2.4ミリシーベルトの自然放射線を浴びています。またミリシーベルト、マイクロシーベルトといった単位も間違えやすく、大きな誤解を生みます。現在、放射能被ばくが直接原因の健康被害は報告されていませんが、多くの方が避難生活を余儀なくされ、ストレスや運動不足によって生活習慣病になり、放射線ではない原因によりがんの発生比率が上昇する可能性もあります。だからこそ健康被害をもたらす本当の原因を明らかにし、予防策を伝える必要があるわけです。しかしマスコミや、科学、医学の専門家も含め、時には正反対の意見さえ多く出回っており、どちらが正しいのかわからずに混乱を招いていることも事実です。
もう一つ大切なことは、エネルギーの安全保障の問題です。世界のエネルギー事情は激変しており、インド、中国、東南アジアのエネルギー消費が今後はさらに増加し、エネルギーの奪い合いになるでしょう。またシェール革命でアメリカが世界一の産油国になれば、アメリカにとって中東諸国の重要度が低くなり、日本が頼りにしてきた、ホルムズ海峡閉鎖を巡るイラン問題にも関与しなくなるかもしれません。一方で、東アジア圏のエネルギーは、今でさえ各国との摩擦が多い中国が、いっそう支配力を強めるようになると考えられます。そして日本はエネルギーの安定供給のために、高い価格の化石燃料を買い続け、その結果、貿易赤字がかさみ、日本経済は再び悪化しないとも限りません。
再生エネルギー開発は継続によってイノベーションが起こり、原子力の代替エネルギーとしての役割を果たしてくれるかもしれませんが、いつそうなるかは不明です。だからこそ、エネルギーの安定供給のために原子力は必要であり、もちろん、使用済み核燃料の再処理に見通しがつかない限り、新しい原子力発電所を作ることには賛成できませんが、国民の認証を得た上で、やはり再稼働はすべきだと思います。また日本で仮に原子力発電所をすべて廃止したとしても、今後ますます豊かになる途上国で、エネルギー需要が増加すれば、原子力発電もまた増加していくことでしょう。その時に、これまで日本で培われた、開発のみならず安全運転のための技術の伝授は、事故を起こした国であるからこその責務になると思います。
評論家・公益財団法人大宅壮一文庫理事長
1941年、東京生まれ。国際基督教大学卒業。マスコミ活動では国際問題、政治経済から食文化、子育てまで幅広く活躍し、切れ味のよいコメントが好評。これまで行政改革委員会、税制調査会、道路公団関係四公団民営化推進委員会など多くの委員を歴任。日本の構造改革にかかわってきている。民間企業では、株式会社高島屋社外取締役をはじめ数社のアドバイザリーボードメンバーもつとめる。