福島第一原子力発電所の事故以来、放射線に対する社会の関心は高まりましたが、数多くの研究者による正反対の意見や、風評に近い情報に惑わされることがしばしばあります。もし低線量放射線を被ばくしたとしても、何に気をつければ、体内にある免疫力を高めて、健康を維持できるのでしょうか。宇野賀津子氏((財)ルイ・パストゥール医学研究センター インターフェロン・生体防御研究室長/NPO法人 知的人材ネットワーク・あいんしゅたいん)にお話を伺いました。
私はこれまで、がんなどに対する人の免疫機能について研究を続けてきましたが、福島第一原子力発電所の事故直後から、放射線影響によるがんのリスクを心配する声が高まったため、低線量放射線研究会を立ち上げ、NPO法人 あいんしゅたいんを通じて情報発信をしています。その際に心がけているのは、可能な限り原論文に当たって検証し、多様な専門家による多面的議論を重視し、さらには市民との意見交換をすることです。
学習会の講師メンバーの一員として実際に福島県を訪れてみると、除染が進んだ地域であるにもかかわらず、ある保育園の園長先生からこんな質問を受けました ──「現在、外遊びを2時間に制限しています。いつから外遊びができるでしょうか?」。しかし、毎日放射線量を計って、部屋の中と外で線量に差がないのであれば、外遊びを禁止する理由はないのです。線量を計って確認しても、それでも放射線に対してどこまで防護すればよいのか限界がわからない人が多いというのが現状です。
私がまずお伝えしたいことは、放射線には高い線量と低い線量があり、その影響は根本的に違うということです。100ミリシーベルト以下の低線量の影響については、広島・長崎の原爆被災者の研究結果によって立証されてきたことですが、明らかな影響は検出できませんでした。これはないと言いきれるわけではありませんが、わからない位リスクは小さいと言えるでしょう。しかも広島・長崎では一瞬にして高線量の放射線を浴びていますが、今回の福島では、問題にされている被ばく線量は低く、時間をかけて被ばくしています。また、被ばくしたといっても、これからの生き方によって健康影響には大きな差が生まれるので、自暴自棄になることこそ最も危険だと言えるのです。
福島に赴いた時によく耳にしたのは、いろいろな研究者がいろいろなことを言われて、どの意見を信じればよいのかわからないということでした。混乱を招いている一因に、物理系と医学・生物系の研究者の感覚の違いがあるように思います。あいんしゅたいんという団体で、一緒に情報発信している坂東昌子さんは、素粒子論が専門の物理学者ですが、彼女と話をしても考え方の差を実感することがあります。物理系研究者にとって、放射線は原・水爆に結びつく危険なものなので、多少、大げさに言ってもかまわないという意識があるのかもしれません。一方、生物・医学系研究者は、放射線治療により多くの人の命が救われており、私たちの細胞は日夜、傷つき、そして修復していることを知っています。しかしかつてエイズウイルスが社会的な問題になった際に、感染の可能性について研究者があいまいな表現をしたためにパニックをもたらした苦い経験から、放射線についてはなるべく具体的に数字を提示して段階的なリスク評価をすべきだということを、私自身が研究者として痛感しています。大切なのは、放射線について過大・過小のどちらの評価も正しくないということです。それともうひとつ、日本では放射線教育がほとんどされてこなかったため、放射線について初めて学ぶのは、修学旅行で訪れた広島の原爆資料館だという場合があり、原爆による悲惨なイメージが心に焼きついて、今回の放射線影響の受け止め方が過大になっているのではないかと思います。
放射線は、高線量の場合は急性の重大な障害が起こりますが、低線量ではたとえDNA(遺伝子)障害が起こったとしても、被ばくしてから数年から数十年経ってから、がんや老化への影響が現れたり、現れなかったりします。そして放射線によるDNAの障害の6〜7割は、放射線が私たちの体内にある水の分子に当たって水素の結合がはずれ、活性酸素が発生することで起こります。
地球の長い歴史の中で、生物は酸素呼吸を手に入れたことにより進化をとげ、酸素は私たちにとって必須のものですが、一方で、酸素が増えたことにより絶滅した生物もいました。つまりこれまで繁栄してきたのは、酸素をコントロールできた生物です。また、私たちの体内で活性酸素は、強い酸化作用によってウイルスや細菌を退治するという大切な役割がありますが、増加しすぎると健康な細胞まで酸化してしまうため、老化の引き金になります。活性酸素は、タバコ、肥満、環境汚染や残留農薬、強い紫外線、ストレス、食品添加物などによっても発生しますし、がんのみならず、心臓病、動脈硬化、脳梗塞、胃潰瘍などさまざまな疾患の原因になるということが研究により明らかになっています。
活性酸素によってDNAが傷ついてもすぐにがんになるわけではなく、修復されることもありますし、また、異常な細胞ができた場合は、それをチェックして「自殺」に追い込むシステムが働くこともあります。体内で変異した細胞ががんになるまでの長いプロセスの中で、最後の砦になるのが体内の免疫システムです。そして最後まで生き残った変異細胞を除去してくれるのが、NK(ナチュラルキラー)細胞です。しかしNK細胞は恐怖やストレスに弱く、免疫力が低下するとがんになるリスクが上がります。
では免疫力をどのようにアップさせたらいいのでしょうか。これはがんの生きがい療法から学ぶことができます。たとえば、今日一日の生きる目標に取り組むといったものから、よく言われているように、笑うことで免疫力を上げる療法もあり、また化粧療法もあります。老人病院で高齢者に対して化粧を行った結果、気持ちが前向きになるという成果を挙げたため、福島ではこれを応用して、化粧用乳液でハンドマッサージを行いリラックスしてもらったところ、唾液中のストレスマーカーが低下したことがわかりました。
放射線をむやみに怖がる前に、放射線は、宇宙から、地面から、大気から、あるいは食品からも受けているとしっかり認識することが大切だと思います。福島の食品のうち野菜の安全については、放射線検査に合格したものが市場で販売されていますし、家庭菜園で作った野菜は線量計で測定し、基準値をもし越えているようなら、用土や肥料を変えるなどで改良できると思います。放射線を気にしすぎて、栄養不足にならないようにする方がより大事だとも思います。そしてがんや成人病を予防するために必要なのは、野菜の摂取のみならず、塩分と動物性脂肪の制限も重要です。アメリカでは、食べ物の摂取について提言した「デザイナー・フーズ計画」を1990年に開始し、その後、がんが減少したというデータがあります。また長野県は、1981年から減塩と野菜を食べようというキャンペーンを続けた結果、男女とも長寿日本一になっています。福島もこれらの例にならって、県内で収穫された豊富な食材や抗酸化食品をより多く摂取して、がんを抑制すべきですし、このように加齢による病気を未然に防ぐための予防栄養学は、低線量放射線の影響を克服するためにも応用できると思います。
福島では、事故後の避難によって亡くなった方がたくさんいらしたということが現実問題としてあります。避難先を決められずに老人病院から転々と移動したバスの中で亡くなった高齢者の方もいました。また、仮設住宅住まいでは、運動不足やストレスで肥満になったり、あるいは子どもたちへの影響を考えて県外に自主的に避難したまま、慣れない土地での暮らしで免疫力が低下していることも考えられます。福島第一原子力発電所の事故とよく比較されるチェルノブイリですが、甲状腺がんの問題については、日本と比較してロシアは慢性的なヨード不足であったため、子どものガン患者が増加しました。放射性ヨウ素が体内にたくさん入ってくると、体内で放射性ヨウ素を取り込んだ甲状腺ホルモンができ、内部被ばく状態になるのが甲状腺がんの原因だからです。しかし、福島は第二のチェルノブイリにはなりません。なぜなら、福島第一原子力発電所の事故は放射線放出量が圧倒的に低く、また、地質の差によって、放射線の吸収が抑制されているからです。放射線による被害よりむしろ、風評被害により作物が売れない方が深刻だと思います。私たちは、多くの情報に振り回されて、不安になったりストレスをため込んで免疫力を低下させないように、科学的に物事を見る目、リスクを総合的に判断する目、情報を選別する目を十分に養い、正しい行動を選択することが、健康のために何よりも大事だと私は考えています。
(財)ルイ・パストゥール医学研究センター インターフェロン・生体防御研究室長/NPO法人 知的人材ネットワーク・あいんしゅたいん
大阪市立大学理学部生物学科卒業、京都大学理学研究科(博士課程動物学専攻)単位取得退学、理学博士。1986年より京都パストゥール研究所(現ルイ・パストゥール医学研究センター)に入職後、90年より現職。京都大学医学部・人間健康学科非常勤講師。現在、日本インターフェロン・サイトカイン学会幹事、日本免疫学会評議員、日本抗加齢医学会評議員を務める。ヒトのインターフェロンシステム、免疫機能と病気との関連について研究を進めるとともに、性差・女性のライフサイクルの研究や女性研究者支援活動にも取り組む。著書に『低線量放射線を超えて:福島・日本再生への提案』(小学館新書)、『理系の女の生き方ガイド』(ブルーバックス)、『性教育・性科学事典』編著(小学館)、訳書『女性とは何か』(人文書院)など。