小説を書きながら、技術に関して二つのことを考えさせられました。一つは、ひらめきや知識だけの技術では実用化されないということ。明治時代の中頃、電気事業者は当時主流だった火力発電だけではなく、大規模水力発電の開発を進めようとしていました。その理由は、戦争などの影響によって火力燃料の石炭の価格が急騰したことから、何とか有事の折も民間企業が最小限の影響で済むようにできないかと切望したからですが、それが実現したのはアメリカで開発された大容量の高圧送電技術が日本にも導入され、山奥の発電所から遠い消費地に大量の電気が送られるようになったからこそです。これにより木曽川の水力開発が一気に進みました。つまり、水力を使って電気をつくる発想や知識はあっても、高圧送電の技術を伴わなければ大規模水力発電の有効活用ができなかったということです。
木曽川沿いにある33の水力発電所のうち7つを福沢桃介が大正時代に手がけていますが、その7つ全てが現在も稼働しています。実際に発電所の建物を目にすると、それぞれ趣が異なる建築様式を用いて「ライン川畔の古城のような発電所」を目指した桃介の意図がよくわかります。現代の発電所は窓も小さく目立ちませんが、この7つは窓を大きく取り、夜には明かりが対岸からよく見えるようにしていました。電気が当たり前ではなかった時代だからこそ、ここで電気をつくっているというプライドや、電気のおかげでより豊かになる生活を人々にアピールしようとした光景が目に浮かびます。
もう一つ考えていたのは、技術の存続ということです。先日フランスは、2040年までに国内のガソリン車、ディーゼル車の販売を禁止し、電気自動車などクリーンエネルギー使用の自動車のみ販売を認める声明を発表しました。現在はガソリン自動車が主流といえますが、実は歴史上では電気自動車の方が先に普及しています。ガソリン自動車普及のきっかけは、原油から重油を作る過程において危険で用途のない廃棄物であったガソリンを活用できる技術や内燃機関の研究開発が進んだからです。しかし一方で、なかなかうまくいかなかったけれど蓄電池など電気自動車を支える技術も地道な研究を続けてきたからこそ、今日再び脚光を浴びているといえます。
研究の継続や技術継承の必要性は、ノーベル物理学賞受賞の益川敏英先生と対談をした時にも強く感じました。先生にエネルギーや原子力についての意見を伺うと、「あなたはこの国の将来を二流の人に任せたいと思いますか」とおっしゃいました。技術や学問は捨ててしまったら取り返しがつかない、あとは二流の技術者や学者しか残らなくなるというのです。そして「研究者は長い年月をかけて問題を解明していくための数珠の一粒に過ぎないのだから、壁にぶつかった時には、それまでのデータをすべてきちんと整理し箱に入れて棚の上に載せておき、いつ誰が取り出しても良いようにしておけば、いつかはブレークスルーできると思います」というお話も印象に残っています。
原稿を書くために木曽川開発や登場人物について調べていくうちに、この100年間の科学や文化の変化について考えさせられることが数多くありました。1907年、日本の電力会社は116社もありましたが、発電設備容量はわずか11万5千キロワット。現在はその2,000倍の2億5千万キロワットにもなっています。また明治時代の日本人の平均余命は平均36才だったのに、今は医療や技術の進歩で90才近くまで伸びました。しかし、便利で快適になった一方、知らず知らずのうちに捨ててしまった大切なものもあるし、実は今の暮らしのシステムは当たり前なのではなく、連綿と続いてきたものの先端にあるものだと認識する必要もあると思うのです。
今は女優という職業は当たり前ですが、100年前の日本では女性が舞台に上がるのは不浄と言われ、西欧の舞台システムを体験した女優第一号の貞奴は、日本で劇場改革を進めようとするたびに抵抗されてきました。桃介が土木という男社会の事業パートナーに彼女を選んだのは、そのチャレンジ精神を見込んだからだと思います。部外者であり異端な存在をエネルギー業界に巻き込んで、女性の目で見た美しい水力発電所とは何か、電気エネルギーが女性に与える影響についてなど、共に考え事業を進めようとしたのではないかと、今、改めて思っているところです。
水尾 本日の会場である電気文化会館は、明治22年に名古屋で初めて電灯を灯した名古屋電燈会社の社屋があった場所に建てられており、福沢桃介はのちにこの会社の社長になっています。日本の水力発電開発草創期の物語を書かれた神津さんと、新聞連載時に挿絵を描かれた川﨑さんにご登壇いただくのにふさわしい会場ですね。
神津 20年来の友人の川﨑さんに挿絵をお願いしましたが、一年間、合計245回も挿絵を描くのは大変な作業だったと思います。
水尾 実に細かく描かれているので時間がかかったと思います。描く絵のモチーフについては、あらかじめ神津さんから依頼されていたのでしょうか?
川﨑 連載小説の挿絵を描くのは初めてでしたが、題材もすべて任せていただいたので、やりがいがありました。歴史的事実が積み上げられた神津さんの重厚な文章に相応する挿絵を描きたかったので、現地へ赴いて実物を見たり、明治大正期のモチーフを資料館などに行って探したり、かなりの時間を割きました。
神津 文章についても、先ほどの技術を残すという話と関連しますが、電力会社をはじめ取材先の各所で貴重な資料が数多く残されていたおかげで書けたのだと思います。
水尾 川﨑さんは多くの発電所を描かれていますが、どこに苦労しましたか?
川﨑 それぞれが個性的な建物とはいえ数が多いので、例えば賤母(しずも)発電所には山深さを出すべく背景を描きこんだり、桃山発電所は夜、窓の明かりが輝いているイメージにしたりと、一つ一つ描き方を変えたことです。
水尾 19世紀末、かつての様式から分離し時代に即した新しいスタイルを打ち出そうと、ウィーン分離派と呼ばれる若手の画家、彫刻家、建築家による芸術運動が起こり、日本でも雑誌の紹介で知られるようになりました。桃介はこうした外国の建築デザインをよく知った上で、発電所建設に応用した可能性があると思います。
神津 大正期の日本には、大規模水力発電の技術はなかったので、スイスやドイツから水車を調達していますし、桃介自身がドイツに赴いているので、建築スタイルには海外の流行を取り入れていたと思います。
水尾 また、当時の建築物が100年経っても頑丈な理由には、1891年に起きた濃尾地震の影響が大きいと思います。それまでは、西洋建築を学び西洋の建築をそのまま日本で作ってきた建築家たちは、大地震で反省を強いられることになり、以来、耐震技術の研究が進んだといわれています。
水尾 貞奴と川上一座のアメリカ巡業の地図などにより、物語の流れがとてもわかりやすくなっています。その反面、人物の表情を描かなかったのはなぜでしょうか?
川﨑 挿絵といえば人物を描くのが通例ですが、ありきたりではないかと考え、読者の想像を妨げないよう、読者の想像力を刺激できるようにあえて影という形にしました。例えば桃介の正妻ふさは、蔦が這った暗い窓の奥にいて、精神的に追い詰められていく姿を表しています。
神津 貞奴とふさは対照的な人物ですね。貞奴の夫、川上音二郎もアメリカ巡業という大冒険に挑んでいますし、桃介も発電所を作る夢物語を実現している。大胆な行動を取る彼らには貞奴の力が必要だったということを、小説を書いているうちに感じました。
川﨑 貞奴が桃介と共に木曽川水力開発に掛けた気概や願いを満遍なく表現している、と個人的に思っているのが、本のカバーにも使われている絵です。この絵は、貞奴と桃介の羽織裏につけられていた柄を基に描いたものですが、貞奴のデザインと言われています。帆掛け船に宝づくしという伝統的吉祥紋様を使いつつ、三艘の舟の真ん中の帆には貞奴のシンボルである紅葉、左は桃介の桃の字をデザインしたもの、右に電力の電の字を置き、木曽川の荒波にもまれながらも夢を叶えようとしている。二人の物語の象徴にも感じられました。
神津 桃介と貞奴という稀代のパートナーのように、ジャンルを超越したいろいろな力を結び合わせれば、例えばエネルギーなどの難問題も解決に向かうのではないかと思っています。
水尾 今の日本では毎日のようにエネルギーに関するニュースが耳に入ってきますが、神津さんの著作により100年前の日本のエネルギー事情を知り、今後のエネルギーについて考えるきっかけになれば良いと思います。
日本画家
武蔵野美術大学・日本画科を卒業後、日展を中心に制作発表。1997年、山種美術館賞展にて優秀賞第一席、2000年、第31回日展出品作「旅の途中」は文化庁に買い上げられるなど注目されている。武蔵野美術大学客員教授を経て、現在は女子美術大学非常勤講師、日本中央競馬会運営審議会委員、霊友会妙一コレクション相談役などを務める。曾曾祖父・川﨑千虎、祖父・川﨑小虎、父・川﨑春彦、伯父・川﨑鈴彦、外伯父・東山魁夷という日本画家の一族である。
名城大学人間学部教授
専門は建築学、都市計画。現在、名城大学にて環境人間学、都市文明史担当。国土交通省をはじめ愛知県など数多くの行政機関や各種団体の委員などを歴任。