ETT企画委員が企画した勉強会を経団連会館とZoomによるオンライン参加のハイブリッド型で開催しました。本年8月に開始された福島第一原子力発電所の処理水放出決定までの経過、この数年の世界情勢の変化や情報戦などと絡めて、福島を巡る今後の課題と対応について、開沼博氏(東京大学大学院情報学環・学際情報学府 准教授)にお話を伺った後、メンバーによる意見交換と質疑応答を行いました。
今年8月24日から福島第一原子力発電所の処理水の海洋放出が始まりました。敷地内には高さ10mを越すタンクが1,000基以上もあり、処理水は東京ドームがいっぱいになる容量に達し、これ以上狭いエリアにタンクを敷き詰めていると、原子炉のデブリ取り出しや処理などの廃炉作業の足かせになり、敷地確保が不可避でした。また大熊町・双葉町など地元首長から早期処分を求める声も上がっていました。
処理水についてのこれまでの流れを振り返ると、事故後、現場が少しずつ整理されてきた2013年に処理水問題(当時は汚染水と呼称)が浮上し、国民にも意識づけられました。経産省には科学技術系の学者が集まり、処理水処分について、地中に埋める、大気中に放出、海洋放出の3つを比較検討した結果、海洋放出がリスク管理、コスト的にも適しているという判断が15年にされています。しかし、この段階で政府は政治的なリスクもあり決定せず、より詳細に検証するため、16年にALPS小委員会*を立ち上げ、私など文系学者も参加し社会的影響つまり風評関連についてきちんと考えてからこの話を進めようということになりました。20年に知見をまとめ21年には政府の方針として決定を下しています。また漁業関係者への補償についても、議論が始まっています。
*経産省汚染水処理対策委員会多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会。ALPS処理水は建屋内にある放射性物質を含む水についてトリチウム以外の放射性物質を安全基準を満たすまで浄化した水。
安倍政権時に、一時、処理水処分をオリンピック開催前までに解決しようとしていましたが、政府はこれまで福島に関して「食べよう! 行こう!」といったキャンペーンによりポジティブなイメージを国民に持たせる活動は続けてきたものの、処理水放出のようなネガティブ問題を進めると政府の支持率低下に結びつくため、棚上げしてきました。しかし何年もかけて議論を重ねた末、22年年末から23年初めにかけて、経産大臣が処理水放出の必要性を国民に語りかける動画を流し、国民への直接的説明をする機会が急激に増えていきました。このニュースがメディアで紹介されることにより、当初は圧倒的に反対多数だった処理水放出について、23年の世論調査では賛成多数に変わり、これが8月の放出開始を後押ししたと考えられます。加えて、IAEA(国際原子力機関)から委員長が来日し7月に海洋放出施設の視察を行い安全性を確認した報告書を公開し、これが国際的な「物差し」となって、初めは輸入規制を公表していた多数の国が解除し、残っているのは中国、ロシア、韓国など一部地域に限定されています。
処理水の科学的特性についてリテラシーが上がってきた国内では、結果的に、中国が処理水放出問題を政治利用していることから、放出について一致団結したのだと思います。水産物については放出後も応援景気が見られ、積極的に国産水産物を流通させ国民が食べる動きが見られます。漁業者でつくる全国団体、全漁連は、処理水放出に最後まで反対を唱えており、「東京電力の賠償とは別に、トラブル時には国が補償をすべきだ」と主張していました。実は、以前にサブドレン水と地下水バイパスからの排水を認可したために中傷を受けた漁業者たちは、今回、「我々は反対したが政治の責任であることを明確化するよう」求め、政府は補償のために合計800億円の基金を設立しました。形式上、福島などの東北地方に限定されず、北海道から沖縄まで申請が可能で、処理水によるリアルな汚染被害に対してというより、風評被害に対する金銭的な対策が進められています。
一方で、中国の輸入禁止にまつわる背景として、23年8月1日、中国は半導体の原料となるレアメタルの輸出規制に踏み切ります。これは昨秋からアメリカが中国に半導体輸出を制限したことに端を発しており、半導体を輸入した中国が製造する電気製品の中に高度なスパイウェアを組み込んでいるという理由からでした。中国にはレアメタルはあるけれど、半導体の高度な技術はありません。日本からの水産物輸入禁止は半導体輸出規制に同調した日本に対する、貿易戦争、経済安全保障の問題といえます。複雑化する国際情勢において、中国はほかにも諸外国に対し切れる外交カードはすべて切っています。一般的にネガティブな風評が起こると一時的にニーズが下がりますが、時間が経てばまたニーズは上がるものの、一度下がった価格は長期的に固定化する恐れがあり、今回の中国の場合、日本の高級食材である水産物のニーズが年々、増加しているにもかかわらず切ったため、日本は低プライス化を免れるためにも国内消費の拡大や代替輸出先の調整が必要になり、政治の力が試されています。
8月の処理水放出は、ギリギリで適切なタイミングだったといえるでしょう。なぜなら、政治資金問題などにより政党の政権支持率が今のように下がっていたら、放出は数年以上遅れていたかもしれませんし、他の問題にも玉突き的に悪影響を及ぼす可能性がありました。また今回は風評加害対策が一定程度行われたともいえますが、放出問題をきっかけに、「処理水自体の危険性」から「風評のリスク」に国民の意識が移行しています。
風評による被害者がいれば、必ず加害者がいます。政府はこれまで風評被害対策は進めてきましたが、マイナスになった部分、売上低下に対する賠償などです。しかし風評被害の原因の分析と対応を行わなければ、風評は解決しません。事実関係を整理していくと、風評の原因は、明確な意図をもって風評の原因となる言説を流してきた主体であることが明らかになってきました。その主体とは、特定のメディアや党派、あるいは「MICE」=Money カネ、Ideology 思想信条に役に立つから流す、Compromise(思い込みなど自分の中の)帳尻あわせ、Ego 利己心・自己顕示欲に振り回された無名の個人といえます。Compromiseの一例としては、自主避難した人の中にはずっと移住地に居続け、その理由を、福島は危ない、処理水放出が危険なことを隠蔽しているからなどと、自己肯定、正当化をしなければならなくなります。その意見をメディアが報道すれば、全国的に拡散してしまいます。また情報社会のリスクとして、SNSでたった数人が情報を流すと、一気に何千万人もに拡散します。こうした認知戦(人間の脳などの認知領域に働きかけて、その言動をコントロールする戦い)、制脳戦に対し、外務省はデマを否定する情報発信をSNSで積極的に行っていましたが、経産省、総務省も同じく動き出しています。これからは、SNSに流れる情報、マスメディアの発信の在り方についての検証も必要なのです。処理水問題は、棚上げの期間が長引いた結果、国際情勢の変化への対応と同様に、フェイクニュース等への対応に追われる状況になったといえます。
最後に、福島が現実的にどのように受け止められているかを民間の調査に基づいて紹介します。まず友人知人に福島産の食べ物、旅行を勧めるかの問いには、4人に1人が「放射線が気になるのでためらう」と答えています。また「被ばくによる健康被害が現世代や子や孫の世代に起こる」と考え続けている人も4割程度います。複数の国際機関が健康被害はないと結論づけているにもかかわらずです。また東京都民で福島県内の現状を正しく理解していると思う人はわずか1割でした。福島問題には3つの壁 --- 過剰な政治問題化、過剰な科学問題化、ステレオタイプ化&スティグマ(負の烙印)化があるのです。福島をネット検索するとマイナスイメージが多く出るため、情報が固定化してしまう恐れがあり、誰でもわかるように専門家が説明すること、つまり、一部の人しかわからないハイコンテクストではなく、知識がなくてもわかるシンプルで明快なコミュニケーション方法であるローコンテクストにする必要があります。
では、福島第一原子力発電所内にあるトリチウムの量はどのくらいでしょうか。全部で約2,000兆ベクレル。うちタンクには約900兆ベクレル。これは、東京ドーム1杯分の容器にヤクルトの容器半分くらいが混ぜられ薄まっている状態といえます。これほど少ない量のトリチウムを取り出す技術開発にあえてコストと時間を費やすべきでしょうか。しかもトリチウムの環境放出は世界中で行われています。例えば、英・仏・加では福島のトリチウム全量と同量もしくはそれ以上を毎年、放出中ですし、仏ラ・アーグ再処理施設では約1京3,700兆ベクレルと、7倍近くも放出していますが、欧州の海で問題が起きたと報告されていません。そして福島の処理水すべてを毎年環境中に放出しても、私たちが日常生活で1年間に受ける平均的自然放射線量である約2.1ミリシーベルトの1/1,000以下です。また放出期間について、合理性を考えればスピードアップしてもいいのですが、安全性と風評被害の対策を政治が意思決定するかどうかの問題で、長期にわたると風評被害も長期化する可能性が高くなります。
福島への偏見や差別の原因についての調査において、政府・行政が原因というのが37%、東電32%、そしてマスメディア58.8%と最も高かったです。一般国民は、マスメディアが風評を煽っていることを認識しています。福島は不安だという一部の意見を報道でクローズアップしてしまっていいのか、報道の在り方も模索する必要があります。情報発信すべきは政府・行政なのですが、専門家の使う用語は分かりづらく、専門家によって異なる意見もあるため、正確な情報をわかりやすく伝えられる人を選別する人も必要になってきます。そして今回の処理水問題からわかることは、反対する人にどのように向き合い、どう対応するかが重要であり、どのような問題においても同じですが、事実を見極め客観的、冷静に判断することで解決可能な知恵が出てくるのだと思います。
講演後にグループディスカッションで意見交換を行った後、開沼氏との質疑応答を行いました。「処理水放出はうまくスタートできたと思うが、除染した除去土壌は処理水より大量にあり、最終処分の状況はどうなっているのか」という問いに、「再生利用することは決定されており、すでに南相馬市で盛土、飯舘村で作物栽培も始まり、東京の新宿御苑や環境省の関連施設で実証を考慮されている」と答えました。「風評被害について、国と国との関係で経済制裁をする側、される側のどちらがネガティブな影響を受けるのか」に対しては、「これまで国際問題として福島を見てこなかったが、外交上の動きは複雑なので、華僑のような見えないネットワークがどう反応するのかも含め、今後は国際関係、政治学との交流を深め研究していきたい」と答えました。次に「福島の人たちは避難で家族がバラバラになってから、現在はどのような状況なのか知りたい」に対して、「長期化する避難過程での関連死は2,300人と健康被害が大きく、加えて家族が離散し家庭内介護ができなくなり外注することにより地域の介護保険料金が上がっている」とのことでした。「私たちが風評加害者にならないようにするにはどうしたらいいか」については、「元のデータを正確に把握して、同情心で加害者側に回ることに対し疑いを持つ冷静さが大切」と答えられました。「マスコミが冷静に判断して情報を流すべきではないか」という問いかけには、「情報過多な社会だから、マスコミはセンセーショナルな話題を出したがるものだ。それ以外にも、インフルエンサーの発信についてファクトチェックしながら、サポートしていくのが大事」と答えられ、さらに「増加する情報量の中から正しく情報を受け取る判断をどうしたらいいのか」については、「同質な人たちとだけコミュニケーションをとるのではなく、世代も立場も違う人と話し合うことが一番で、少し違和感を持つことが健全だと思う」と答えました。 最後にETT神津代表からの感想は、「今日の話でETT活動の今後に示唆をいただいた気がする。棚上げとか不作為であったとしてもすべてが悪いわけではないし、処理水放出に反対する人もすべてが悪いとはいえない。善か悪かで分けるのではなく、中間の立場を取れるものの見方の重要性を感じた。また専門家の話に「物差し」があれば、一般人にも理解しやすいし、両者がさらに努力して理解し合うことができると思う」。
東京大学大学院情報学環・学際情報学府 准教授
1984年福島県生まれ。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府博士課程単位取得満期退学。専攻は社会学。立命館大学衣笠総合研究機構准教授等を経て2021年より東京大学大学院情報学環准教授。福島や原子力などに関する幅広いテーマを対象に研究。経産省汚染水処理対策委員会多核種除去設備等処理水の取扱いに関する小委員会委員、資源エネルギー庁総合資源エネルギー調査会原子力小委員会委員などを歴任。『はじめての福島学』(イースト・プレス)、『福島第一原発廃炉図鑑』(太田出版、編著)などの著書のほか、学術誌や新聞・雑誌等にルポ・評論・書評を執筆。第65回毎日出版文化賞人文・社会部門。第6回地域社会学会賞選考委員会特別賞。第36回エネルギーフォーラム賞優秀賞。第37回エネルギーフォーラム賞普及啓発賞。