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エネルギー関連施設の見学レポートや各分野でご活躍の方へのインタビューなど、多彩な活動を紹介します

安積疏水見学レポート
郡山の発展と近代日本の産業を拓いた「一本の水路」

猪苗代湖から奥羽山脈を抜けて郡山へ水を引いた安積疏水(あさかそすい)は、明治政府の国営農業水利事業第1号として郡山を豊かな大地へと変貌させただけでなく、水力発電により近代産業の発展をもたらしました。2020年11月2日、神津カンナ氏(ETT代表)は日本遺産「未来を拓いた『一本の水路』」の関連施設を見学しました。

*疏水とは、かんがいや舟運のために新たに土地を切り開いて水路を設け、通水させること。



猪苗代湖の水を郡山へ、大久保利通が描いた開拓の夢

郡山駅から車で約15分、安積疏水の水を管理している「安積疏水土地改良区」の事務所を訪問しました。第8代理事長 本田陸夫氏から「猪苗代湖は標高514.12mで安積平野は海抜245m前後、安積疏水は水が高低へ流れる自然の原理を活用している。郡山が栄えたのは安積疏水のおかげです」と伺った後、安積疏水の紹介ビデオを見て、ご同行いただく職員の方に概要説明を受けました。江戸時代、安積地方(現郡山市)は人口5,000人程の宿場町で交通の便は良かったものの水源に乏しく、荒涼とした原野が広がっていたそうです。猪苗代湖の水は西側の会津地方のみに流れ、奥羽山脈がそびえる東側の安積原野には水利の問題もあり、流れていなかったからです。明治時代になると、福島県と開成社により官民一体の大槻原開墾事業が始められました。近代国家を目指した明治政府で内務卿として実権を握った大久保利通は、その成功を目にしました。そこで殖産興業・食料増産による「富国強兵」と、失業した武士を移住させる「士族救済」を結び付けた全国的なモデル事業を安積の地で実施したいと政府に提言し、予算を計上させました。「安積開拓・安積疏水開削事業」が始まる目前、大久保は暗殺されてしまいましたが、夢は引き継がれていきました。工事は東西へ流す水量を調整する「十六橋(じゅうろっきょう)水門」の建設から着手され、外国の最新技術を駆使して奥羽山脈に585mのトンネルを通しました。着工からわずか約3年後の1882年(明治15年)、延べ85万人の労力と、当時の国家予算の約1/3にあたる総工費407,000円(現在の約400億円)をかけて約130kmの水路が完成したのです。後の那須疏水(栃木県)、琵琶湖疏水(滋賀県―京都市)の建設にも大きな影響を与え、安積疏水と合わせて日本三大疏水と言われています。


■安積疏水関連施設


現在、「安積疏水土地改良区」は3市(郡山市・須賀川市・本宮市)1町(猪苗代町)にまたがっています。組合員は約8,500人で、安積疏水の水は約8,500haの水田に使われ、さらに東京電力の水力発電にも利用されています。特筆すべきは「看護人」制度で、総勢100人の農家の人たちが毎日水量を確認・調整したり、水の流れを妨げるごみなどを取り除いたりして、祖先が開拓した安積疏水と水田を守っているのだそうです。また、後世に水の大切さを語り継いでいくため、地区の子どもたちは小学4年生の時に安積疏水施設などを見学します。2016年には「未来を拓いた『一本の水路』-大久保利通“最期の夢”と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代-」が日本遺産に認定され、年間約3,000人が見学に訪れているとのことでした。

次に、大久保利通の偉業を伝える「大久保利通翁顕彰会」の鈴木英雄会長を訪ねました。農家を営む鈴木氏は牛庭水稲生産組合にて脱穀の作業中で、たくさんの米袋が詰まれていました。「福島県の米の生産量が全国3位なのは安積疏水のおかげだと、皆、大久保利通に感謝している」「福島の米は美味しいが、福島第一原子力発電所事故の風評被害で、郡山の米まで安くなってしまい、今も米価が戻らない。時代の流れで農家もどんどん減っている」と話してくださいました。大久保利通を称えて建立された「大久保神社」は今や顕彰碑だけですが、「水を奪い合う地域もあるなか、仲良く分け合って大事に使いましょう」と毎年続けてきた水祭りには鹿児島県から子孫の方々も参加され、2019年の創建130周年記念祭には灯籠も奉納されるなど、交流を続けているそうです。資料館に展示された記念写真を見て、様子を伺い知ることができました。その後、松山藩からの入植者のために建立されたという古い三嶋神社へも案内していただきました。

最先端技術を駆使した特別高圧長距離送電で郡山の産業発展に貢献した沼上発電所

再び車に乗り、猪苗代湖からの落差を利用して山の上から下へ導管で水を流す水力発電所を巡りながら、東京電力リニューアブルパワー(株)の職員の方に説明を伺いました。いずれも日本遺産ですが今も改修を重ね、埼玉の管理センターから遠隔操作しているとのことです。1921年(大正10年)に運転を開始した「丸守発電所」は、近辺の温泉街などへの電力供給に利用されていました。その上流には1919年(大正8年)に運転を開始した「竹之内発電所」もありました。 さらに上流にあった「沼上(ぬまがみ)発電所」は古く、明治32年(1899年)に運転を開始しました。11,000Vの高圧電力を22.5km離れた郡山市まで、当時の最先端技術を使った長距離送電により紡績会社の工場に電力を供給し、郡山市の産業発展に大きく貢献しました。降車して発電所内を見学すると、水車や発電機が設置されていますが、水田に安積疏水の水を大量に流す農繁期の4月〜9月の半年間しか稼働させていないため静かでした。昨年の2019年には運転開始120周年を迎え、郡山駅でイベントも開催したそうです。

次に向かったのは「田子沼分水工」です。猪苗代湖から郡山方面へ引き入れた水を、安積疏水(郡山・本宮方面)と新安積疏水(須賀川方面)に分ける重要な施設です。地下約16mにあるため、トンネルに入って約100段の急な階段を下ると、右側と左側に水路が分けられているのが見えました。水流のある時期には迫力があり、声も聞こえないほどになるそうです。現在は遠隔操作で管理されていますが、昔は職員の方がここまで下りて水流の様子を見に来ていたとのことです。

猪苗代湖へ車を走らせ、北東側の上戸(じょうこ)地区から郡山方面へ水を引き入れるためにつくられた、扇形の取水口「上戸頭首工(とうしゅこう)」を見学しました。ここから取水された水はすぐトンネルの水路に入り、先程の「田子沼分水工」で2方向に分かれます。穏やかな湖面を眺めながら扇形の取水口を歩いて一周すると案外小さいようにも見えましたが、最大取水量は1秒間に15.179トンもあります。これは小学校の25mプールの水を満杯にするのに通常4〜5日かかるところ、約20秒で満杯にできる水量です。敷地には「水利利用標識」が立てられていました。長瀬川他10河川から猪苗代湖に流れる水は年間約11億トンで、そのうち「安積疏水土地改良区」の水利権は年間1億4,735万トンです。山手線がすっぽり入る面積の猪苗代湖で水深約1m47cmに相当する水量を、かんがい用水に使っているそうです。

今度は会津若松方面へと紅葉と猪苗代湖を横目に車を走らせ、対岸から安積疏水へ取水するための施設「十六橋水門」を見学しました。扉体に1から16まで番号が書かれた水門が設けられています。この「十六橋水門」には、安積原野への導水により、猪苗代湖の水位低下に対処する役割がありました。明治政府が招いたオランダ人技師ファン・ドールンが日本初の量水標を用いた実測データに基づき、「湖の出口にある日橋川の川底を掘り下げて水門を設置し、湖の利用水深97cmを利用すれば、東側の安積原野に水を流しても湖の水位は低下せず、西側に流れる水量も減らない」と科学的に実証したのは、経験則に基づいていた当時としては画期的なことでした。水門は治水ダムの役割も兼ねると聞き、湖の氾濫に苦しんでいた住人たちも参加して大工事を約1年で終わらせ、完成後は被害も少なくなったそうです。また敷地には、猪苗代水力電気の初代社長 千石貢氏と東京電燈および安積疏水関係者が建立したファン・ドールンの銅像が水門を見守るように立ち、「安積疏水の父として称える」と碑文が刻まれています。第二次世界大戦中、軍需用資源として回収されないよう山に埋めて隠し通したという驚きの逸話もあります。1942年以降、水力発電の取水施設としての役割は「小石ヶ浜水門」に代わり、猪苗代湖は3m24cmも有効利用できるようになりました。現在「十六橋水門」の主な役割は防災・減災のための水位調整で、福島県が治水管理をしています。水門は通常環境維持のための維持流量のみ放流していますが、2020年7月の記録的な大雨の際に7年ぶりに水位調整のため開けられたそうです。

物の無い大正時代に創意工夫でつくられた猪苗代第二発電所

猪苗代湖から西へと向かう車中にて、お話を伺いました。「十六橋水門」から流れる水の落差を利用して、1914年(大正3年)に猪苗代第一発電所が運転を開始しました。東京駅を設計した辰野金吾監修による鉄骨レンガづくりで、東京駅と同じ赤レンガを120万個使用して建設されたそうです。水車・発電機などは海外からの輸入品を使用し、当時の出力37,500kWは東洋一の規模を誇り、近代日本を支えました。これから見学する猪苗代第二発電所はその4年後、1918年(大正7年)に運転を開始し、同じく鉄骨レンガつくりですが、第一次世界大戦中で輸入品が途絶え、かつ日本の技術技能も進歩したため、こちらは国産の水車・発電機などが当時の姿を残したまま使われています。到着して実物を見ると、緑の山を背景にした赤レンガ色のレトロな建物の美しさに圧倒されます。入口の上には、創建当時の猪苗代水力電気株式会社の社章が飾られ、中に入り階段を上ると、水力発電の構造や、風力・太陽光発電のしくみなどを紹介した模型などが展示されていました。

配電盤室は現在無人で、遠隔から監視・制御されていますが、その裏手には発電機全体が監視できるよう、ガラスがはめ込まれたバルコニーが設けられていました。ゆがみが特徴の昔の手づくりガラス越しに見下ろすと、後方に双輪で動かす2つの水車、前方に発電機が見えました。当時は技術的に大きい水車をつくることが難しかったので、2つを組み合わせる構造が採用されたそうです。さらに館内を歩くと「歴史史料展示コーナー」があり、発電所の年表や昔の写真など、さまざまな展示物を見ることができました。猪苗代第一発電所では改修工事を行った際にも水をムダにしないよう、発電所を3分割して1分割ずつ工事を進め、残りの2分割では発電を継続したそうです。また、大きなふいご(金属加工の際、燃焼促進のため空気を送る道具)も展示されていました。昔は鍛冶屋などの職人たちが工具も自分が使いやすいようにつくったり、メンテナンスしたりしていたとのことです。送電鉄塔も手づくりされ、重機が無かったので人力で起こしていた様子が史料にありました。最後に建物の裏に出て、導管を見学しました。当時は溶接の技術が完成されていなかったので、リベットで繋ぎ合わせて1本にしたものですが、今でも使われているとのことでした。今日は安積疏水の関連施設を数多く巡ることで、先人の知恵と開拓者精神により切り拓いてきた、近代日本の水エネルギーにまつわる歴史を目の当たりにする見学ができました。


対談を終えて

何かを契機に世の中は思いもかけない変化を遂げる。どんなに新しい制度を作ってもなかなか変わらなかったものが、たとえば東日本大震災後の電力システム改革、新型コロナウイルス猛威の中でのIT化の進行など、あっという間に進み、見る見る間に変わってしまう。その凄さには舌を巻くほどだ。しかし一方で、捨ててはいけないもの、変えてはならないもの、忘れてはいけないものもたくさんあり、それらはややもすると変化の波と一緒に消え去ってしまう場合もある。そういう意味で今回「安積疏水」をきちんと見学することができたのは良かったと思っている。今日の日本を作った礎は、色々なところに散りばめられている。知恵や技術、人の力や信念、さまざまなものによって、私たち現代に生きるものは支えられているのである。そしてそれらは「当たり前」の中に埋没し、今は見えなくなってしまっている。そして新しい何かこそが「いま」を救う全てだと思ってしまう。
「温故知新」という言葉があるが、ともすると若者は「温故」を忘れ、高齢者は「知新」を忘れる。どちらが良いのかという話ではなく、そのどちらもきちんと忘れない若者も高齢者もいるのだから、面倒くさがらずに両者を見る目に対して勤勉であろうと、安積疏水のあちこちを見学しながら私はしみじみ思った。かつて、東京都下水道局の重要文化財、旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設を見学したときも、高知県の沈下橋を取材したときも、福島県の安積疏水を取材した今回も、共に思ったのは、私たちを支えている見えない網の存在だった。スマホ機能と格闘するのも、いにしえの人の知恵に驚嘆するのも同じである。連なる数珠の先に、ただ私たちは存在するのである。

神津 カンナ

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