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東原和成氏インタビュー
「匂い」はコミュニケーションに必要な情報伝達手段

東原和成(とうはら かずしげ)氏は、匂いが人の情動や行動におよぼす影響の解明に取り組む“匂いのプロフェッショナル”です。教授を務められている東京大学の研究室にて、目に見えない匂いが持つ力や、コミュニケーションにおける匂いの重要性などについて神津カンナ氏(ETT代表)がお話をお伺いしました。

オンラインは五感からの情報が得にくく伝わりづらい

神津 東原さんが匂いを研究しようと思われたきっかけから教えてください。

東原 私は町並みを散策するのが好きで、都市の空間設計を学ぼうと東京大学の理科一類(工学部)に入学したのですが、諸事情があって3年生からの専門課程では生物系化学が学べる農学部の農芸化学学科に進学しました。そこで配属された研究室でフェロモンの世界に出会い、昆虫が匂いを厳密に識別して行動が制御される「匂いが持つ力」に魅力を感じ、その後、留学して研究者としてのトレーニングを積み、帰国後に匂いの研究をスタートしました。

神津 建築から方向転換されたのですか?

東原 匂いも建築も「気持ちいい空間をつくる」という意味では共通しています。空間によって人間がどう影響を受け、動かされているかという興味がずっと根底にあります。

神津 フェロモンに興味を持たれたのはなぜですか?

東原 フェロモンは嗅覚の一部で、同じ生物種のなかで惹きつけられたり発情したりといった効果をもたらす物質です。人間のフェロモンは物質がまだ見つかっていませんが、同性間、異性間のフェロモン様現象は報告されています。最近、我々の研究で、赤ちゃんが出す匂いを母親に嗅がせると、オキシトシンという絆を深めるホルモンのレベルが上がる効果がわかりました。人間が出す匂いでコミュニケーションが行われていることはまちがいないと思います。

神津 私たちはふだん、匂いについてそれほど意識していませんよね?

東原 ほかの動物は食べ物を手に入れるなど、生きるために匂いの情報を使うので、匂いに常に敏感になっています。飢餓状態だった原始人と違って我々はその必要がないうえに、世の中はどんどん無臭、消臭の方向へ向かっているため、悪臭や食べ物の匂い、例えばキンモクセイの香りなどには気づきますが、多くの匂いは感じてはいるものの無意識下に入っています。

神津 意識はしていないけれど実はいろいろな匂いを感じているというのがおもしろいですね。人間は昔よりも匂いを感じる機能が劣っているわけですか?

東原 動物としての嗅覚は確かに退化していますが、人間らしい嗅覚の使い方を獲得し、進化しています。例えば、食べる時に喉越しから香りがしておいしいと感じるのは人間だからこそできることです。

神津 食べるといえば、今でこそスパイスは、言ってみれば味付けの意味合いが大きいのですが、元々は保存をするためですよね?そのような使い方をするようになったのはいつ頃からなのでしょう?

東原 スパイスは古代から香りや臭み消し、保存にも使われてきました。食物にハーブを詰めるのは腐らせない意味もあり、ミイラにも香草を詰めます。清める時に香りを焚きますが、匂いには殺菌するような力があることを人間は昔から知っていたのです。

神津 なるほど。ところで、五感のなかで嗅覚の特別性というのは何なのでしょう?

東原 無意識のうちに情動や記憶とかに結び付けられるところです。緊張すると鼻に手を持っていくのは、いつも嗅いでいる自分の匂いを嗅いで安心するためです。調香師さんなど香りを職業にしている人が「嗅ぎ過ぎて疲れた、リセットしたい」という時には、手首の内側など自分の匂いを嗅いでいるのですよ。

神津 へえ。私たちはたくさんの匂いに囲まれているものの、意識することなく、相当な処理能力を持っているのですね。

東原 まだ科学的には実証されていませんが、極度の恐怖に陥ると恐怖の匂いがするなど、情動の変化でも体臭の変化が起き、相手に微妙に伝わります。ある研究では、脇にパッドを挟んでスカイダイビングをした後、その経緯を知らない人にパッドの匂いを嗅がせると緊張・不安感が高まった(=伝わった)という実験結果があります。ですから、オンラインより対面のコミュニケーションのほうが多くの情報をやり取りできるのです。

神津 なるほど。コロナ禍ではオンラインが普通になっていますが、対面でしか得られない情報が多々あるのですね。

東原 オンラインでは視覚でも相手の状態が見づらく、聴覚でもタイムラグがあると心の機微が読み取りづらいため、相手の意図がちゃんと伝わりません。さらに同じ空間をシェアしていないので、限られた情報で相手の意図を読もう、もっと多くの情報を得ようとして疲れてしまいます。私が特に心配しているのは子どもです。先生の表情がマスクで隠れて情報を読み取れないので、コミュニケーション能力が育たないのではないでしょうか。

匂い分子が電気信号として脳に送られ、記憶と結び付く

神津 そもそも匂いの情報は、どういうプロセスをたどって得られるのですか?

東原 鼻腔の上部にある、数百万から一千万個とも言われている嗅細胞の先端の手のひらのような形の繊毛で「匂い分子」をキャッチすると、約400種類の「匂いセンサー」(嗅覚受容体)で匂いを識別し、神経が興奮してその情報を電気信号に変え、脳に伝えます。ちなみに新型コロナウイルスは嗅細胞を支える支持細胞に入り込んで嗅上皮を破壊するので匂いを感じづらくなります。しかも感染がひどいと匂い情報を処理する神経回路がリセットされるので、その後匂いの感覚が変わってしまうとか戻らないといった重篤な後遺症が残るわけです。

神津 「匂い分子」の種類はどの位あるのですか?

東原 何十万もあります。我々が嗅ぎ分けられる匂いには、「何十万種類の匂い分子×約400種類の受容体」の無数の組み合わせがあります。それに比べて味覚は甘味・酸味・塩味・旨味が各1種類と苦味が25種類、視覚はRGB(赤・緑・青)と白黒の4種類の受容体しかありません。

神津 匂いをより細かく識別できる鍛え方はありますか?

東原 脳のなかで「匂い分子」の電気信号は、良い匂いか嫌いな匂いかを評価する「扁桃体」や「視床下部」、記憶を司る「海馬」、味覚などの情報と統合して風味を認識する「眼窩前頭野」に伝わります。匂いをどれだけ、どういう感情を持って記憶して覚えているかによって、匂いの識別能力は変わります。キンモクセイの香りを知らない人は、嗅いでも脳が意識できません。ですからソムリエや調香師などは香りを覚えるところから始まります。

神津 「匂いセンサー」は皆持っているけれども、香りを覚えられるかどうかで能力の差が出てくるわけですね。

東原 あとは匂いが通る鼻腔の空間の構造により、「匂い分子」が「匂いセンサー」に到達しやすい、しにくいの違いはあります。

神津 嫌な匂いと感じるのも、何かの記憶に結び付いているからでしょうか?

東原 嫌な匂いは強く頭に残ります。ネズミに嫌なことをして匂いを嗅がせる行為を繰り返す「嫌悪学習」をさせると、その匂いを嗅いだだけでビクビクします。そこで仲間のネズミの匂いを嗅がせると安心します。

神津 ところで、日本人は匂いに対して独特な感覚が何かあるのでしょうか?

東原 「にほひ」の語源は「に」が赤いという意味の丹、「ほ」が穂あるいは秀をあてて、「丹穂(秀)ひ」です。中世の日本では、匂い立つ=光り輝く、赤く燃え立つという視覚的な意味のほか、うさん臭いといった雰囲気を伝えるなど、匂いは嗅覚だけでなく五感全体を表す意味で使っていました。日本独特の香道でも「香りを聞く」と言いますね。当時は匂いのメカニズムがわからなかったので、五感で受け止める一つの手段と思っていたのかもしれません。また、香りを儀式で使って現世と死後を結び付ける考え方は、日本だけでなく各国で見られます。

神津 日本人は無臭や消臭が好きで、あまりきつい匂いを好まないような気がするのですが。

東原 白人は体臭が強いが故に香水が生まれ、匂いが常にある空間にいて匂いは存在して当然のものという感覚ですが、東洋人は腋臭の人が遺伝的に少なく体臭が薄いのです。食文化においても、素材の香りを生かすのが日本料理です。さらに日本人の衛生志向も合わさって、無臭を良しとする文化になっています。でも、日本人は繊細な香りを愛でる素養は持っていますし、香道を発展させるなど、香りに対しての理解はあります。

神津 外国の人が日本に来ると、何か匂いを感じるのでしょうか?

東原 「醤油っぽい、発酵したような匂いがする」と言いますね。

神津 “家の匂い”のように、日本に住む私たちは感じなくなっているのですか?

東原 家の匂い=生活の匂いで、同じ空間に住んでいる家族は同じものを食べて体臭も似てきますし、常に嗅いでいるので感じなくなっています。自分の匂いに対しても、脇の下などから体臭がプンプン出ていますが順応しています。

神津 外国の人と、匂いの文化摩擦といったようなことはあるのでしょうか?

東原 育った環境や文化により、匂いの好みは全く異なります。ヨーロッパの人は小さい頃から毎週通っている教会のカビ臭い匂いは嫌いではないですが、日本人は好みません。逆に日本人は納豆やカツオ節の匂いに慣れ親しんでいますが、ヨーロッパの人は魚臭いと嫌に感じます。

神津 文化が行き来するようになった今は、匂いに対する感覚も変わってきたでしょうねえ。

東原 昔の日本人はチーズを食べていなかったので臭いと感じていました。今でもダメな人はいますが、その土地に行くと食べ物の匂いは意外と受け入れられるものです。地域で採れる植物と食べ物には共通の匂いがあるからです。沖縄のビールは、さとうきびなど沖縄特有の穀物の匂いの空間で飲むとおいしいでしょう?

神津 そのような空間の空気感も、リモートでは排除されてしまいますね。

東原 五感で感じて自分で咀嚼して「受け入れる力」と、何かを見たり聞いたり読んだりすることからイメージを膨らませて「考えられる力」の両方を育むことが脳を育てると僕は思っています。今はインターネットで情報がどんどん出てくるので自分で考えることをしませんが、本を読んでいろいろ考えたり妄想できることが五感を鍛えることにつながります。「受け入れる力」と「考えられる力」があることで人は上手なコミュニケーションができたり、状況に応じて的確な行動ができたりするのです。


足の裏の臭い+バニラの香り=チョコレートの匂い!?

神津 東原さんは「加齢臭と聞いて嗅ぐと嫌な匂いと思うが、何も言われなければわからない」とおっしゃっていますね。

東原 匂いには非常に多くの組み合わせがあるので、脳が記憶できていないのです。匂いだけを嗅がされると、大抵は何の匂いだかわかりません。お茶の匂いを嗅がされ、芝生や畳をイメージする人もいます。今日はいろいろな匂いを用意してあるのでブラインドで嗅いでもらいましょう。AとBの小瓶の匂いを嗅いでみてください。

神津 Aは臭い!銀杏みたい。 Bはいい匂いのような?

東原 Aは足の裏の臭い、Bはバニラの香りです。AとBを混ぜて嗅ぐとチョコレートの匂いになるでしょう? それぞれ、チョコレートに入っている匂いなんです。次はCとDの小瓶の匂いを嗅いでみてください。

神津 Cは臭い!私はダメです。Dはあまり匂いませんが…。

東原 Cはチーズ、Dは汗の匂いです。

神津 チーズと聞いてから嗅ぐと、いい匂いだと思いますねぇ。

東原 チーズは発酵食品です。動物にとって発酵と腐敗は同じなので「危険かもしれない」と正直に体が反応したのです。でも名前を聞いて「食べているものでおいしい、安全」と脳にインプットされると、いい匂いと感じるのです。汗臭は我々が出しているものなので、危険で嫌な匂いではないのですね。

神津 なるほど。匂いは記憶に左右されるのだとよくわかります。最後に、東原さんが今後、研究したいことを教えてください。

東原 人のコミュニケーションに関わる匂いの意義を実証したい。あと、匂いを嗅ぐと脳のなかでどういう活動が起こって情動や行動の変化が起きるのかまだよくわかっていないので、脳での嗅覚のしくみをもっと解明したい。こういった研究が進むと、VR(仮想現実)のように「あの時、あのシーンで感じた懐かしい匂い」をつくることができるようになるかもしれません。この要望はとても多いのですよ。

神津 それは楽しみですね! 本日はありがとうございました。


対談を終えて

五感の中でも、視覚や聴覚に押されているように思える嗅覚だが、掘り下げてみると非常に面白い。とても複雑だが、それだけにまだ可能性がたくさん秘められているように思う。  
面白かったのは、匂いの構成を細かく分析し科学的に合成させると、良い匂いと思われるものが、いわゆる「悪臭」というか、驚くべきものの匂いとの組み合わせで成立することもあるということだ。ある意味で「多様性」の必要を感じる瞬間であり、思いがけないもの、排除したくなる匂いがあるからこそ成り立つ、良い「匂い」というものを通して、色々なことを学ぶ。世の中に不必要なものはないのかもしれない。
そしてもう一つ学んだのは、いかに匂いが、個々の持っているイメージや記憶によって成り立っているのかということだった。いわゆる「歴史」「民族」「文化」「イデオロギー」などさまざな背景の中で、私たちは一つの匂いを、良い悪い、好き嫌い、により分けているのかもしれない。人はポンと切り取られたように「今」を受容しているが、その背後にはたくさんの認識ファクターを持っていて、なかなか捨てられない。とても勉強になった。
「空気感」という言葉を、この新型コロナ蔓延が始まってからよく耳にする。「空気感」というものをなかなかうまく説明することはできないが、おそらく「匂い」を識別するように私たちは絶えず色々なファクターで何かを感じ取っていて、その中の大切なものが共有する「空気」の中にあるのだろう。それがなくなったことで、失った認識もあるのだと思う。
東原先生と話していると、人間の可能性とそしてある種の限界を知ることにもなり、自分を知る瞬間でもある。香りを楽しむワインでも飲みながらもっとお話を伺いたいとつくづく思う次第である。
そして夜寝るとき、自分の匂いに包まれた安心感で寝られるんだなあ……と、鼻をうごめかせながら、ふとんにくるまった。

神津 カンナ


東原和成(とうはら かずしげ)氏プロフィール

東京大学 大学院農学生命科学研究科 教授
1966年生まれ。1989年東京大学農学部農芸化学科卒業後、ニューヨーク州立大学ストーニーブルック校で博士課程修了。1993年デューク大学医学部博士研究員を経て1995年帰国。神戸大学バイオシグナル研究センター助手、東京大学大学院新領域創成科学研究科先端生命科学専攻助教授などを経て2009年より現職。2020年「日本味と匂学会賞」など受賞歴多数。共著『ワインの香り』『においと味わいの不思議』(虹有社)など。

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