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エネルギー関連施設の見学レポートや各分野でご活躍の方へのインタビューなど、多彩な活動を紹介します

第1回 インタビュー 地球が輝いて見えたのは、一人ひとりが一生懸命生きているから

『フォーラム・エネルギーを考える』は、エネルギーについて生活者の視点で考え、話し合うという基本的な活動方針に、「より広く、より深く、より密に」という3つの柱を掲げています。このキーワードをテーマに、神津カンナ氏(ETT代表)が、各界でご活躍のゲストの方々へ数回にわたりインタビューをしました。その内容をご紹介します。

第1回は、日本人女性宇宙飛行士としてスペースシャトル・ディスカバリー号に搭乗し、国際宇宙ステーションでも多くのミッションを遂行された山崎直子氏です。

一つずつ訓練を重ねて夢を現実に

神津 宇宙への憧れは、いつ頃からあったのですか?

山崎 小学校2年の時、天体望遠鏡で初めて見た土星の輪や月のクレーターに感動しました。アニメ「宇宙戦艦ヤマト」にも影響を受けたと思います。具体的に宇宙に行きたいと思うようになったのは、テレビでスペースシャトル・チャレンジャー号の打ち上げを見たからです。SFの世界ではなく、実際に人が宇宙に行く映像が心に焼きついて、また乗組員の中に、当時、なりたいと思っていた学校の先生もいたので、より身近に感じられました。

神津 なるほど。どういう人が宇宙飛行士に選ばれたのかというのも、子どもには大切なテーゼなのですね。もちろん、なりたいと思ったから必ずなれるものではないですけれど、それでもチャレンジされた選抜試験は具体的にどのようなプロセスで進むのですか?

山崎 選抜試験の募集は不定期に行われ、書類審査、筆記試験の1次試験、医学検査や英語面接の2次試験、さらに3次試験では10人前後に絞られ、つくば市にある閉鎖環境適応施設という大型バス1台分のスペースの中で、作業やディベートなどのタスクが与えられ、1週間ほど5台のカメラで監視されました。終了後、アメリカのNASAで面接、さらに日本で最終面接と、1年近くかかりました。

神津 これは凄い。閉鎖環境で24時間監視されたり、かなりストレスがたまるテストを幾つも与えられる。それらは、どういう資質の審査だったのだと思われますか?

山崎 求められている資質は時代によって変化し、宇宙開発初期よりもエンジニア的要素が多く求められるようになり、あらゆる環境への適応力、忍耐力も求められたと思います。1999年に候補者に選ばれ、2年間の基礎訓練を経て、宇宙飛行士として認定されました。その後、育児休暇から訓練を再開した頃、2003年のコロンビア号の事故が起こりました。

神津 事故には、かなりショックを受けられたことでしょう。当然、宇宙計画の遅れが生じ、いつ宇宙に行けるか確約もない中で、どのようにモチベーションを保たれたのですか?

山崎 訓練の手を抜けば、宇宙に行けなくなるのは確実でしたし、私は訓練が楽しかったので、みんなで一つひとつ訓練を重ねてモチベーションを保っていきました。

神津 コロンビア号の事故後、「それでも我々は宇宙をあきらめない」といったブッシュ大統領の声明が発表されています。危機が起こってすべての人が動揺し、落胆した時に、トップが今後の方向性を示し、現場のスタッフや家族がしっかりと支えてくれれば、モチベーションは何とか保たれますね。

山崎 宇宙飛行士の訓練は、日頃から地域の方々にも時折見学してもらっていました。宇宙に行くのは一人じゃない、みんなで参加しているミッションだという共感が支えになってくれたのです。

あらゆる想定の訓練を受けても起こりうる「想定外」

神津 最もつらかった訓練はどのようなものでしたか?

山崎 体力的に厳しかったのは、屋外のサバイバル訓練です。ジェット機の操縦訓練があり、非常時には座席ごと射出され、パラシュートで海でもジャングルでも着地できるよう訓練を受けました。さらに海に落ちた後、救助されたヘリコプターがその後の悪天候で海に墜落という想定で、ヘリコプターから脱出する訓練も受けました。

神津 生き延びるために、日常生活では眠っていた感覚を目覚めさせ、チームで協力しながら、あらゆる想定のもとで訓練をするのですね。実際に宇宙に行くと決まった時の気持ちはいかがでしたか?

山崎 訓練期間が長かったので、やっとここまできたという喜びがわきました。これだけ訓練しても健康上の理由で行けなくなることを最も恐れていましたから。

神津 宇宙に飛び立った、いわば「現場」で、あれだけ過酷な訓練を積み重ねながら、それでもまだ想定もしなかったことは起きましたか?

山崎 地球と大容量の通信をするスペースシャトル搭載のアンテナが動かなかったため、国際宇宙ステーション(ISS)と通常のドッキングができず、別の方法で位置関係を計測しながら、近傍では手作業で接近しなければなりませんでした。また国際宇宙ステーションから離脱後、ロボットアームを使って機体を映した画像から破損箇所がないか地球で点検してもらうのですが、スペースシャトル搭載アンテナの不具合により、ISS係留中に行うという初めての出来事で、操作が大変でした。シャトルが地上と大容量の通信が不可能になり、ロボットアーム操作へも影響することはまさに想定外の出来事だったのです。

神津 最新の技術といえども、信じられないようなことが起こってしまうのですね。

山崎 この世界では、最先端技術より一世代前のこなれた技術を駆使することが多く、新技術は人の手で実証されてから徐々に導入されています。緊急時には、各人の能力が試されますし、日頃の訓練を応用して作業の優先順位をつけたりコミュニケーションをはかったりというチームワークが大切ですから、最先端よりも皆が馴染んだ技術が必要なんです。

より多くの日本人に体験してほしい宇宙という魅惑の空間

神津 作業時間外はどのように過ごしていらしたのですか?

山崎 担当する作業が各人で異なるので、クルーが全員そろうのは夕食だけです。寝る前のわずかな自由時間に窓外を眺めるのが最高の気分転換でした。無重力状態になって初めて見た地球は、足もとではなく頭上に見え、これまで絶対と思ってきた天地の軸が、相対的だというのが印象に残っています。宇宙から地球を見ると、昼は大自然のパワーを感じ、夜は煌煌と灯る照明によって、人の営みが見え、一人ひとりが一生懸命生きているからこそ地球の輝きがあるとも思いました。

神津 その感覚は宇宙に行った人にしか分からないですね。宇宙旅行が夢ではない時代なので、これからは、より多くの人が体験できるかもしれません。飛躍的に宇宙開発が進む世界情勢において、技術力があっても国が積極的に参与しないと、取り残されてしまいます。宇宙から見るとアジア大陸で最も明るいといわれる日本では、3.11後に原子力発電が停止し、エネルギー問題や放射能問題が大きくなりましたが、宇宙の放射線量について、山崎さんは冷静な発言をされていましたね。

山崎 宇宙滞在中は、宇宙船の壁を通じて1日当たり平均1ミリシーベルト浴びています。地上の半年分を1日で浴びることになります。放射線環境下で宇宙飛行士は活動をし、帰国後は握手を求められるほど歓迎されるのに、福島から避難された方たちが握手を拒まれたと聞き、きちんと放射線のことを理解してほしくてTwitterに書き込みました。

神津 厳しい環境の宇宙に進んで赴いた山崎さんは、今後はどのような活動をしていかれたいですか?

山崎 JAXAを退任後、2012年7月より内閣府の宇宙政策委員会委員に就任したので、これから宇宙に行きたいと思っている人たちを支える活動をしたいと考えています。また、弾道飛行用の有人宇宙船がアメリカで開発中ですが、それらを導入あるいは国際共同開発して、日本からも直接、宇宙に行けるようになれば、宇宙経由でアメリカに日帰り旅行も可能になりますし、20年後には物流さえ大きく変わると思います。小惑星探査機「はやぶさ」や日本実験棟「きぼう」、補給船「こうのとり」などの活躍によっても日本の開発研究技術は注目されていますから、主体性をもって国際協力ができるよう、国が制度や人材育成を促進する必要があると考えています。

神津 ETTのテーマであるエネルギーの面から考えても、資源の乏しい日本においてエネルギーを自国の技術で調達できるようになり、またさまざまな形で国際貢献できるようになれれば良いなと感じます。宇宙の魅力を伝えることがこれからのミッションだというお話を伺い、山崎さんのように多彩な分野で活躍されている方々からさまざまなヒントをいただき、新たな視点を持って活動していくことがETTのミッションなのだとあらためて思いました。

山崎 直子(やまざき なおこ)氏プロフィール

1970年千葉県松戸市生まれ。96年、東京大学大学院工学系研究科航空宇宙工学専攻修士課程修了後、NASDA(宇宙開発事業団/現JAXA)に入社。99年、ISS(国際宇宙ステーション)に搭乗する宇宙飛行士候補者に選定され、2001年に宇宙飛行士として正式に認定される。04年、ロシアのソユーズ宇宙船フライトエンジニアの資格を取得。06年、NASAよりミッションスペシャリストとして認定。10年4月、スペースシャトル・ディスカバリー号に搭乗し、ISSで数々のミッションをこなす。同年12月~東京大学において航空宇宙工学に関する研究に従事し、11年にJAXAを退職。12年4月1日より立命館大学客員教授。同年7月、宇宙政策委員就任。日本宇宙少年団(YAC)アドバイザー就任中。

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