明治から大正にかけての電力草創期に木曽川の水力発電を開発し、のちに電力王と称された福沢桃介と、事業パートナーだった日本の女優第一号の川上貞奴を主人公とした、神津カンナETT代表の新聞連載小説「風のゆくえ」は、改題、加筆修正後『水燃えて火』(中央公論新社刊)として2017年3月に出版されました。その舞台となった木曽川水系の水力発電所やゆかりの施設を、2017年6月22日から23日にかけてETTメンバーが見学しました。
日本で初めて電灯が灯されたのは明治11年(1878)。初期の電気利用から、近代産業の発展により動力として大量の電気を使うようになると、小規模な石炭火力発電ではなく、発電能力が大きくコストが安い水力発電が必要になってきます。木曽川は長野県の鉢盛山を源流とし、岐阜、愛知、三重を経て伊勢湾に注ぐ全長230kmに及ぶ一級河川。福沢桃介は、水量豊富で急流な木曽川を水力発電に適した川として注目し、大正8年(1919)から15年(1926)にかけて7つの発電所を築き上げました。と同時に外国の技術導入により長距離送電体制が構築可能になり、それまで発電所の近辺でしか消費できなかった電力を、大消費地の大阪方面にまで送ることができるようになりました。
今回の見学に当たっては、神津代表と共に、小説連載時に挿絵を描いた川﨑麻児氏(日本画家)にも同行願い、現地取材時の印象や連載時のエピソードをお話しいただきました。また木曽川沿いの水力発電所を管轄する関西電力木曽電力所の担当者から、各発電所の詳しい説明がありました。
上流から見学した7つの発電所のうち、桃山、須原、大桑、読書(よみかき)の4つが長野県、賤母(しずも)、落合、大井の3つが岐阜県にあります。「読書発電所までは、木曽川を挟んで中山道のすべて対岸(右岸)にあります。それは、右岸がトンネル掘削に適した硬い岩盤だったことに加え、発電所をライン川の古城のように〈見せる〉という桃介の意図でした」と神津代表。車窓から見えた桃山発電所はコンクリート打ち放しのネオゴシック様式ですが、確かに自然との調和がとれていました。桃山発電所の桃山は他の発電所のようにその地名ではなく、下流の鵜沼で桃介が気に入って買い求めた土地から見えた山を冠しています。50Hz、60Hzどちらも発電できるようにしたため、日本の東西で電力融通が可能になった初の発電所として、大正12年(1923)の関東大震災後には、須原、大桑と合わせて電力不足の東京方面に送ることができたといいます。
須原発電所は、発電の際の熱を逃がすための八角形の尖塔が特徴的なコンクリート造りの建屋です。取材して挿絵を描いた川﨑氏によれば「7つの発電所それぞれの窓の形が印象的で、比較できるように窓のデザインをまとめた挿絵を作ったほどです」とのこと。当時、電気を作る工場=発電所の存在は珍しく、桃介は建屋や施設そのものを広報媒体として活用し、夜、大きな窓から電気が煌々と輝いている様子を見せて電気の魅力が伝わるようにしたそうです。赤レンガの建屋の大桑発電所と、須原、読書、大井の4つは近代化産業遺産として登録されています。
次に訪れた福沢桃介記念館は、桃介が水力発電所建設の現地拠点とした別荘、大洞荘(おおぼらそう)を復元した洋風の建物。大同電力の社長になった桃介が、政財界の実力者や発電所工事に携わる外国人技師をもてなすために建てられ、大正時代に、しかも山奥にあるにもかかわらず水洗トイレなど最新の設備が整えられていました。そして桃介の事業を支え、客を接待する女主人が川上貞奴の役目でした。館内には発電所建設当時の貴重な写真などが展示してあります。「大洞荘の洞は水力発電にちなんで大同電力の同に水を意味する『さんずい』をつけたものです」という神津代表のコメントにも納得しました。
5番目に桃介が造った読書発電所では、背後の山から発電所まで引かれた3本の太い水圧鉄管を間近で見学。「水槽から落とす時に高い水圧がかかっているのに、100年近くも鉄管を使用できているのは、桃介の系列会社で作った素材の鉄と加工技術がともに優れていたから」とのこと。コンクリート造りの建屋には、半円形や屋上に突き出た明かり窓が作られ、アールデコ風のデザインになっています。 建屋、水槽・水圧鉄管のほか、現存する戦前の水路橋の中で日本最大級の導水路である柿其水路橋(かきぞれすいろきょう)、発電所建設資材運搬のために木曽川にかけられた桃介橋とともに、運用中の発電所として初めて国の重要文化財に指定されています。
建屋内に入ると、まず驚かされるのが、高い天井と広い空間の威風堂々とした作り。窓にはめ込まれた、建設当時のガラスから差し込む光で、照明が必要ないほどの明るさです。メンバーは、水の力を利用して水車を回し、軸で繋がる発電機を回転させて電気を作る水力発電の仕組みも実際に見学しました。
桃介が最初に手がけた賤母発電所の近くを通って、最後に造った落合発電所へ向かいました。建屋のアーチ状の窓が印象的で、また木曽川もここまで下ると勾配が緩やかになるため、落合より下流はダムの落差を利用して発電しています。現在では、関西電力が管理する木曽川沿いの33か所の発電所は全て無人運転になり、名古屋市内から遠方監視と制御がなされているそうです。
1日目の最後に訪れた大井発電所の建設時には、洪水や資金不足にも見舞われた桃介。高さ50mを超える日本初の本格的水力発電用ダムは、アメリカの技師を呼び寄せて指導を仰ぎ、およそ3年を要して大正13年(1924)に完成しました。テンターゲート(洪水吐)は21門あり、放流時の絶景が想像できます。ダム堤防の階段のような構造物=減勢工(げんせいこう)は、放流時の水の勢いでコンクリートが削られるのを抑える効果があり、天然の岩盤の形状と見事に一体化していました。 コンクリートに含まれている砂などから染み出した鉄分により、素の白地に赤茶色の縞模様ができていますが、「ダム本体は鉄筋を1本も使っておらず錆びることはありません。 水圧による水漏れに注意すれば半永久的に使えます」との説明がありました。全長約275mの堤体の上部、天端(てんば)には、雰囲気が漂う電灯が並び、ランプシェード、台座、手すりは大正時代の風情を残していました。また発電所の建屋はアールデコ風の直線的でシンプル・モダンなデザインになっています。2日目に訪れたのは、桃介が購入したまま手付かずだった鵜沼の土地を貞奴が買い取って建てた別荘、萬松園(ばんしょうえん)と、隣接した土地を追加で購入し建立した貞照寺(ていしょうじ)です。貞奴の不動尊信仰の集大成である貞照寺には、貞奴のお墓や、女優時代の遺品が多数展示されている縁起館があり、本堂の側面には貞奴の人生図が彫刻されています。その一つには、少女の頃、成田山新勝寺からの帰り道に野犬に襲われ桃介に助けられた場面が描かれ、このエピソードは川﨑氏の挿絵にも取り上げられました。
萬松園は敷地面積1,500坪、建坪150坪、部屋数26の豪華な邸宅。死別した夫、音二郎とかつて暮らした神奈川県茅ヶ崎の萬松園の名前を復活させています。静かな佇まいの近代的な和風の建物は、屋根瓦、柱、天井、ガラス窓などにも意匠を凝らし、洋間、和室、中国風の各部屋には匠の熟練の技が活かされ、それぞれの部屋にはあたかも物語があるかのように造られています。また額縁で隠されたスイッチや、襖の敷居に埋め込まれたコンセントなど、随所に貞奴らしいこだわりが施されていました。 当時としては珍しい床がタイル張りのサンルームには日差しが降り注ぎ、冬は天然の床暖房に、そして夏には木曽川からの風が庭園から窓を通り抜けて涼しく、まさにエコ住宅。邸宅と庭園と木曽川。その3つが貞奴の美学で一つの新たな世界を構築していました。
最後に訪れたのは、名古屋市内にある二葉館。桃介と貞奴が大正9年(1920)から14年間、住んでいた和洋折衷の屋敷は「二葉御殿」と呼ばれ、自家発電装置を持つ最先端の電化住宅でした。平成17年(2005)に名古屋市が移築復元し、国の文化財に登録されています。 オレンジ色の洋風屋根が目立つ邸宅の一階は社交の場として使用され、円形に張り出したソファが優雅な大広間や、商業デザイナーとして有名だった杉浦非水デザインのステンドグラスなど、〈見せる〉ことに主眼を置いた作りになっています。一方、プライベートな空間はあくまでシンプルで、桃介が最も好んだわずか2畳の小部屋も復元されていました。その他、大理石製の大きな配電盤や使用人を呼ぶための電気式ベルなどの電化装置も見学することができます。
今からおよそ100年前、建設機材がまだ不十分だった時代に、険しい木曽谷の激流に橋をかけ鉄路を敷設し資材を運んで造り上げた7つの水力発電所は、今でも発電し続けているのと同時に、桃介が思い描いたライン河の景観も残しています。今回の見学では、発電所、ダム、邸宅などを通じて、壮大な夢を具現化していく実業家桃介と、海外の上質な社会を見てきた粋な女優貞奴の2人が作り上げた、究極のリアリズムと深遠なモダニズムの融合を体感できた貴重な体験となりました。
*福沢桃介(明治元年(1868)- 昭和13年(1937))は、福沢諭吉の養子になり、アメリカ留学を経て幾多の事業を手がけ、明治40年代から名古屋を中心とする実業界で活躍し、木曽川水力発電の開発に情熱を注ぐ。
*川上貞奴(明治4年(1871)- 昭和21年(1946))は、芸妓として伊藤博文など政界の巨星たちのひいきを受けていたが、川上音二郎と結婚し川上一座渡米の際にサンフランシスコで初めて舞台に立ち、米、仏、英、ロシアで「マダム貞奴」として名声を博す。音二郎亡き後、女優を引退して桃介の事業パートナーになる。