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エネルギー関連施設の見学レポートや各分野でご活躍の方へのインタビューなど、多彩な活動を紹介します

東北電力・女川原子力発電所見学レポート(メンバー視察編)
東日本大震災後の原子力発電所と復興に向かう女川町の今

2013年5月、東日本大震災当時、女川原子力発電所長であった渡部孝男氏(現常務取締役原子力部長)が、世界原子力発電事業者協会(WANO)原子力功労者賞を受賞しました。これは、震災以前から緊急時の対応をはじめとした事前準備を行い、東日本大震災時には、安全に原子炉を冷温停止に導いたこと、さらに被災した地域住民を発電所内に受け入れ、地域とともに困難を乗り越えた女川原子力発電所の取り組みが評価されたものです。2012年8月に女川を訪れた神津カンナ氏(ETT代表)は、より多くのETTメンバーに女川を見学してほしいと願い、2013年9月2日、およそ40名の訪問が実現し、同時に、復興に向かう女川町の現状を見学することができました。
※原子力発電所の安全な運営に卓越して貢献した人物を対象に厳正な選考を経て授与される賞で、2002年の創設以来、日本人が受賞するのは2例目。

「止める」「冷やす」「閉じ込める」 ── 建設計画時から最優先された津波対策が有効に機能

東北電力では、震災前は発電電力量の28%(2010年度実績)を原子力が占めていましたが、震災後は女川、東通の両原子力発電所とも停止しているため、現在では約9割を火力が担っています(2012年度実績)。

東日本大震災の震源に最も近かった女川原子力発電所が、なぜ最小限の被害にとどまったのかについて、所員の方から詳しく説明を伺いました。

女川原子力発電所に押し寄せた津波の最大の高さは13mで、福島第一原子力発電所に襲来した津波とほぼ同じ高さです。地震発生時、1号機と3号機が通常運転中で、2号機は定期検査終了に向けて14:00に原子炉を起動したところでしたが、14:46に地震による揺れを感知し、3基すべての原子炉が設計どおりに自動停止、その後の適切な対応により冷温停止状態に至りました。つまり安全確保の基本であり最重要課題である、原子炉の核反応を「止める」、余熱を「冷やす」、放射性物質を「閉じ込める」という3つの機能が有効に働いたのです。

原子炉の安全な自動停止とその後の冷温停止状態維持は、どうして達成できたのか。その要因の一つは、敷地の高さにあります。主要な建物がある敷地の高さは海面から14.8mあり、13mの津波をかぶらずにすみました。そして原子炉冷却用のポンプなどの重要機器は浸水した海面から3.5mの港湾部には設置されておらず、主要な建物がある敷地の高さ(14.8m)から掘り下げた縦穴のようなピットの中で保護されていました。また、非常用ディーゼル発電機が使用できる状態にあったほか、外部電源も1回線が確保されたことが効果を発揮しました。女川原子力発電所では1号機の計画時から津波対策が最優先されてきましたが、歴史上の津波調査や専門家の知見などを積み重ねたさまざまな角度からの検証を、敷地の高さの設定に反映させました。これにとどまらず、建設後もその時々の新知見を収集し、防潮堤の法面防護強化など随時対応してきたおかげで、今回のような津波からも守られたのです。

震災体験を生かしながら、さらなる安全性向上を目指して

それでも一部の設備の倒壊や浸水などの被害があったため、震災後は、福島第一原子力発電所の事故を踏まえた各種安全対策を一層強化しています。震災前に海抜14.8mあった敷地は、1m地盤沈下したので、昨年4月末までに3mの防潮堤を設置し、現在は海抜17mの津波防御になっています。さらに海抜29mになるよう防潮堤のかさ上げ工事にも着手し、2016年3 月には完成予定です。メンバーは、敷地内の海抜50m以上の高台に設置された空冷式の大容量電源装置、電源車6台が常駐している高台電源センターや、万が一の原子炉の冷却機能喪失時にも、海水をくみ上げ熱交換を介して冷却するためのポンプの役割を果たす送水車、そして、これらの車両が機能するよう配備しているがれき撤去用の重機ホイールローダーなどを見学しました。

また、女川原子力発電所では、震災前から免震構造の事務新館を建設(2011年10月完成)していましたが、完成に先立って旧事務館の耐震補強も行っていたことが功を奏して震災時には緊急対策室が有効に機能し、正確な情報の収集・伝達が行われました。そのほか、女川原子力発電所では地域の住民の方たちと積極的なコミュニケーションを図ってきたため、多くの被災者の方たちが震災時に発電所を頼って避難してきました。避難者は最大364名にもおよびました。ライフラインは電気のみが確保され、非常用の食料や水などを被災者の方たちと分け合いながら過ごしたそうです。プラント自体の安全は確保できたものの、発電所所員たちは、家族の安否を確認したり、自分の無事を伝えることもままならず数日間を過ごし、寒い中で防寒着を着たまま床に寝るような生活はひと月以上も続きました。

町民と原子力発電所との信頼関係が支える女川の復興

女川町の中心部では、被災後の町を案内する観光協会のボランティアガイドの方が、メンバーとともにバスで回りながら町の様子や当時の被災体験を詳しく説明してくださいました。女川町の人口は震災前には約1万人でしたが、そのうち8%以上の方が亡くなりました。約4,500戸の住宅が全壊・半壊し、現在は町内の30カ所に建てられた仮設住宅で不自由な暮らしを続けている方が数多くいらっしゃいます。人口比死亡率が高かったのは、町民に今回ほどの津波が来るという認識があまりなかったことが原因でした。海まで歩いて20〜30分もかかるほど遠く、海が見えない地域に住んでいると、自分の家にまで津波は押し寄せて来ないと思い込んでいたからです。バスの窓外に広がる緑が生い茂る野原は、かつて車がやっと通れるほどの路地に民家がぎっしりと並んでいたところでした。またその先には、旅館やタクシー会社、そして地元の人が日々通っていた商店街通りもあったそうですが、すべて流され今は更地になっていました。

津波が押し寄せてきた時の避難場所の一つだった女川地域医療センター(旧・女川町立病院)は、海抜16mの丘の上にあります。メンバーは、街を見晴らせる途中地点まで階段を上るのがやっとでしたが、その高さまで津波をかぶっていたと聞き、避難の大変さを実感しました。さらに高台からは、がれきを撤去し土地をならすためのトラックや重機が多く見られました。何もなくなってしまった平らな土地の向こうには、かつてJR石巻線の女川駅、生涯教育センター、日帰り温泉施設があったと聞いても、信じられない思いでした。また、港近くにはコンクリートのビルが津波を受けて根こそぎ横倒しになったまま残されており、震災の翌日、住民の方々がこうした光景を目にして、声も出なかったであろうことが想像できました。

女川町ではこれから2年かけて土地のかさ上げ工事を行い、7mまで高くする場所もあるそうです。恒久的に住むための復興住宅については、山を削って高台に建設し、切り崩した土をかさ上げに利用して商業地にするそうです。また女川駅は内陸に150mほど移動し2年後の3月に完成の予定です。

災害から2年半が過ぎ町の再生は少しずつ進んでおり、高台の県立女川高校グラウンド跡にできた「きぼうのかね商店街」のように、復興商店街になっているところもあり、秋にはさんま収獲祭を開催するなど、多くの人が訪れるような企画が考えられています。女川町では幸いなことに、未来を担う子どもたちや若者たちの多くが無事だったため、震災後は率先して町のために動き出しているそうです。ガイドの方は、みんなが一歩、足を踏み出せるきっかけになったのは、原子力発電所のおかげだともおっしゃいます。震災時に発電所構内を避難場所として開放してくれたこと、そして何よりも原子炉の安全停止があったからこそ、地元の主要産業である漁業を再開することができたわけです。

町民たちが一致団結して町を活性化させ、さらに観光の町として生まれ変わろうとしている女川 ── 明日に向かおうとする意志を強く感じた視察になりました。

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