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私はこう思う!

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今こそ原子力発電所の考察を

林久美子氏 kumiko hayashi
社会福祉法人友愛会元理事長/富岡町婦人会元会長

福島県は東北6県の入口に位置し県内を3方部に分け、文化を守ってきた「会津」地方、産業発展を推進して来た県庁所在地の福島市や郡山市の「中通り」地方、そして私の故郷太平洋の沿岸に沿った「浜通り」地方である。冬に豪雪となる会津地方、反面浜通りは東京の気候と変わりない。在住する県民はそれぞれに気質も異なり自分の住む居住地に誇りを持っている。浜通りには小さな2つの村と6つの町が有り、8カ町村合わせて約75,000人が住み、阿武隈山脈の山裾と太平洋までの狭い平地で農業を営み、気候温暖で暮らしやすい地だが県内で文化もインフラも交通も一番乏しい所だった。

東京電力株式会社が、浜通り8カ町村の海岸に110万kW級の原子力発電所、福島第一原子力発電所6基と第二原子力発電所4基、計10基の原子力発電所を建設した。その電力はすべて関東地方の東京方面に送電された。私が人生の教えを受けた先輩の推薦を受けETTに入会したのは丁度この頃で、当時の原子力発電は「我が国のエネルギー=原子力発電」くらいの勢いがありETTの学習も原子力発電関係が多かったのを覚えている。

2011年3月11日14時46分、生まれて初めて経験した震度6強を記録した地震、最大21mの大津波に襲われた。続いて津波で第一原子力発電所が電源喪失になり燃料棒が格納器に溶け落ち水素爆発で原子力発電所建屋の天井が吹っ飛び大量の放射性物質が大空に拡散する大事故になった。翌12日の早朝、原子力発電所の10km圏内(最終的には30km圏内)の住民に避難命令が出た。約12万人の住人が一斉に避難行動を起こした。避難先も指示されず、着の身着のままで我が家を後にし、逃げに逃げて考えてみると、あと2カ月で11年の月日が流れようとしている。事故の後、東電と国とで放射能に汚染された家や宅地、田畑など除染してくれたが、山は手つかずなので放射能の数値はなかなか下がらない。どうしても帰りたいという人達がいて8カ町村で30%位の人々が帰っている。しかし今の原子力発電所の状況では帰る気になれない。11年間の避難生活は苦しく悲しい事の連続だった。自分の住処を探して5回も6回も引っ越しをし、家族とも離ればなれになっている。原子力発電所の収束は何時になるのか全く解らない。電力会社の安全神話に惑わされて、最悪の事故や、原発の使い終わった後の始末をどうするか定めないままで出発した原子力発電は失敗だったと今はっきりとそう思う。日本には福島県の他にも多くの原子力発電所がある。今こそ真剣に考える時だろう。日本中はもちろん、世界中の学者の英知を集結して1日も早く原子力発電所の収束法を考案してほしい。

原子力発電所を身近で見て来た私は、残り少ない人生であるが原子力発電所の終末だけは見て納得して死にたいと思っている。

(2022年1月)

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