私はこう思う!

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蒔くべき林檎の種子

中村 浩美氏 hiromi nakamura
科学ジャーナリスト

『マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや』

東日本大震災と福島第一原子力発電所の事故に遭遇して以来、寺山修司のこの歌が、脳裏から消えることはなかった。情緒的な反発としか思えない『脱原子力』宣言に始まる政府の右往左往、そしてパフォーマンスに終始し、議論を深めることなく決められた「革新的エネルギー・環境戦略」。心の海の霧、政府への絶望感は深い。

『2030 年代に原子力発電所稼働ゼロ』が、この戦略と称するものの方針だ。これまで日本の社会と産業・経済を支えてきたのは原子力発電だし、現実的に地球温暖化防止との整合性もある基幹電源が、他に存在し得るだろうか。この重要な選択肢を捨てることが、日本の将来につながるだろうか。再生可能エネルギーの推進はもちろん大切だが、不確実性が多く、過大な期待は幻想ではないのか。またこの拙速な方針は、原子力をめぐる日米の歴史的背景や英仏との関係を軽視したものだし、何よりもこれまで原子力と共生して国を支えてきた、立地地域への敬意が感じられない。今なすべきことは、科学的な原子力発電の安全性の確立、住民の皆さんの意を反映した被災地の復興、そして国家百年の大計につながる、実践的、現実的なエネルギー政策の策定だろうと思う。

絶望的な深い霧の向こうから、また別の言葉も浮かんでくる。

『もしも世界の終りが明日だとしても ぼくは林檎の種子をまくだろう』

寺山修司はこれをルーマニアの革命家ゲオルギウの言葉としてよく引用していたが、正しくは同名の作家のゲオルギウが、著書「第二のチャンス」でマルチン・ルターの言葉として引用したのが原典で、それを寺山流にアレンジしたものらしい。

『どんな時でも、人間のなさねばならないことは、たとえ世界の終末が明日であっても、自分は今日、リンゴの樹を植えることだ。』これが原典だ。

『身捨つるほどの祖国』のために、今ぼくたちが蒔くべき種子、植えるべき樹とは何かを、冷静に信念を持って考えたい。

(2012 年10 月末)

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